安土城
安土城

[滋賀県][近江] 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦


  • 平均評価:★★★★☆ 3.93(17位)
  • 見学時間:1時間34分(14位)
  • 攻城人数:3879(17位)

安土城天主焼失の謎

安土城は「本能寺の変」(6月2日)の13日後の6月15日、何らかの原因によって焼失しています。じっさいに発掘調査でも、熱で割れた礎石や焼土などが見つかっています。
ただし、この焼失の経緯や理由についてはいまも謎のままで、いくつかの説があります。
(6月15日は京都の神官・吉田兼見の『兼見卿記』の記述から)

なお、焼失したのは城全部ではなく、天主や本丸など中心部のみであり、清洲会議の後に織田秀信が二の丸に入城しているように、城としては主に二の丸を中心に機能していたそうです。

天主・本丸焼失についての諸説

明智秀満説

『秀吉事記』や『太閤記』の記述を元とする説で、山崎の戦いの際には安土城の守備についていた明智秀満軍が敗走の際に放火したという説です。
『太閤記』(小瀬甫庵著)には「左馬助(秀満)は安土山に有て(略)十四日未明に、殿守に火をかけ」とあります。
しかし、これは信ぴょう性が低いです。そもそも秀満は安土城から敗走したわけではなく、6月13日に光秀の後詰めとして城を出ていますし、14日には打出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入っています。安土で出火があったとされる15日には、まさに坂本城が堀秀政の軍に包囲されており、その夜には自刃しています。
また、秀満は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器、書画を堀直政に引き渡してから坂本城に火を放っていることから考えても、秀吉側による創作(濡れ衣)と考えるべきでしょう。

織田信雄説

秀満のあと伊勢国から入った織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したところ、折からの強風で天主に延焼したという説です。
これは、ルイス・フロイスの報告(なんらの理由もなく天主や城下に火を付けた)や『日本西教史』収載の当時の宣教師の記述(日本耶蘇会年報)によるもので、その記述には「織田信雄が暗愚だったので放火した」とあります。
ただこの説もそこまでの強風なのに二の丸などに延焼していない点などが説得力にかけます。一方で、信長とともに長男・信忠が亡き後の後継ぎとしては次男である信雄が有力だったのですが、清州会議などで彼が発言権を失ったのは、安土城を焼いた責任を問われたせいともいわれています。
(資料によっては城下町にも放火したとの記述が見られますが、これは誤りです)

野盗説

これは『兼見卿記』が根拠で、略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説です。
これはわりと現実的かもしれませんね。もし6月13日に出陣した明智秀満軍がほぼ全軍を率いていた場合(山崎の戦いの重要性を考えるとその可能性は高いでしょう)、もぬけの殻となった安土城に野盗が侵入したことは十分考えられます。
なお、信長は秘蔵の名物茶器を本能寺に運び込んでいたため、おそらく安土城に価値のある茶器はなかったはずです。

落雷説

落雷によって焼失したとする説です。
じつは江戸時代に入っても、多くの天守は落雷によって焼失しています。
たとえばいまの二条城には天守がありませんが、かつてここには伏見城の天守が移築されていました。しかしその天守は1750年(寛延3年)に落雷で焼失しています。ほかにも徳川幕府による天下普請によって再築された大坂城の天守も落雷で焼失しています。
このように天守が落雷で焼失したということ自体は珍しくないため、可能性としては十分考えられると思います。

歴史学者の見解

林屋辰三郎さんは著書『日本の歴史』において、略奪目的の土民が放火したとしており、熱田公さんは著書『日本の歴史11 天下一統』で、「山崎の戦い後の混乱の中で、略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然であろうか」としており、上記でいうところの「野盗説」を採用しています。

また高柳光寿さんは「織田信雄説」を採用しており、著書『明智光秀』において『秀吉事記』の記事は信雄がまだ大勢力を有していた時期に成立したものであることから、秀吉と信雄との関係を顧慮して明智秀満のせいに仕立てられたのではないかと考証しています。

明智光秀による「本能寺の変」の動機も謎とされていますが、安土城焼失の原因も謎なんですよね。

このページは今後、新情報が発見され次第、追加更新していきます。
   

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今日のレビュー

図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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