大手門に向かって右側に薬医門か唐門をかまえた東虎口があったと推定されています。
この東虎口の石垣工事は2006年(平成18年)3月に完成しました。
石塁(せきるい)と大手三門(おおてさんもん)
安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁(ぼうるい)で遮(さえぎ)っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸(ぎょうこう)を計画していたことから、城の正面を京の内裏(だいり)と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口(にしますがたこぐち)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。
東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾(かいこん)により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入(ひらい)り虎口(こぐち)は、間口(まぐち)約5.5m奥行き約4.2mで、柱を受ける礎石(そせき)等が残ってないため門の構造は不明です。
石塁の中に詰められている栗石(ぐりいし)がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2.4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。
また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遣構が消滅して、石段であったか木階段であったか確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があったが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装(まめじゃりじゅしほそう)をして表示しています。また、通路部分は針葉樹(しんようじゅ)の間伐材(かんばつざい)を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀(どべい)があったと推定される箇所はウバメガシの生垣(いけがき)にしています。
上段郭です。当時はここに来客を迎え入れるための屋敷があったそうです。
東側石塁北上段郭と虎口
東側石塁東虎口の城内側は、一段段高い郭(A区)が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られています。
石塁との問は約6mあります。石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。
この石垣360には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていました。虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われます。
上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遣構は残念ながら残っていません。しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。
東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたと思われます。
石垣には大きな石が等間隔に配麗されています。模様のように大石を配置していることから「模様積み」と仮称しました。
このような大石を等間隔に置く石垣の例は、佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣跡、広島県吉川元春館跡や万徳院跡にあります。
しかし、安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われます。
大手側から見た東側石塁北上段郭です。