聚楽城は関白になった豊臣秀吉によって、平安京大内裏(平安宮)跡に建てられた政庁兼邸宅です。一般には「聚楽第」と呼ばれることが多いです。秀吉は関白職を甥の秀次に譲った際に聚楽第も譲り渡していますが、実子である秀頼が生まれると、いわゆる「秀次事件」によって秀次を高野山に追放し切腹させ、聚楽第を破却しました。完成からわずか8年後のことです。聚楽第の建造物の多くは伏見城(指月伏見城)へ移築されたとされています。また、西本願寺の飛雲閣など聚楽第から移築されたと伝わる建造物も少なくありませんが、いずれも詳細は不明です。いまのところ聚楽第の遺構と認められている建造物は唯一、大徳寺の唐門だけです。現在は石碑が残るくらいですが、跡地を歩くとその規模の大きさを実感することができます。跡地には黒田官兵衛(孝高)や上杉景勝、千利休などの屋敷跡を示す石碑が建てられています。
聚楽第を訪問した874人の報告によれば、平均見学時間は29分、平均評価は2.87点となっています。
聚楽第を攻城した団員が残してくださったコメント(クチコミ)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
聚楽第に関するデータ 情報の追加や修正
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53.7 m
内郭:-- ha 外郭:-- ha
3重3階
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豊臣秀吉によって築かれた聚楽城はいったんは豊臣秀次に譲られたものの、秀頼が生まれたことにより両者の関係が悪化し、1595年(文禄4年)に破却された。その際、建造物の多くは伏見城内へ移築されたとされるが、詳細は不明。天守については3重説だけでなく、4重説や5重説もある。
豊臣秀吉
着工 1582年(天正14年) 〜 竣工 1583年(天正15年)
1595年(文禄4年)
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登録日:2013/11/17 17:35:49
更新日:2024/11/21 15:01:22
聚楽第の見所や歴史などを紹介します。
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