姫路城の天守は江戸時代以前に建設された天守が残っている現存12天守のひとつで、国宝に指定されています。日本を代表する天守といえます。
羽柴秀吉の天守
黒田官兵衛から姫路城を譲られた羽柴秀吉は、1580年(天正8年)から城の大改修に着手し、翌年に3重の天守(複合式望楼型3重4階か)が完成しました。
このときには城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように、もともと姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めています。
池田輝政の天守(現在の姫路城天守)
現在も残る姫路城の天守は1601年(慶長5年)に入封した池田輝政が1608年(慶長13年)から組み立てにかかり、翌年完成したものです。秀吉時代の天守の部材はこの際に転用されました。
なお、普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛とされています。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員はのべ4千万人〜5千万人であろうと推定されています。
天守の構造
姫路城の天守は現存天守の中で最大の規模となっています。
天守の高さは31.5m、天守台石垣の高さは14.5m、天守の総重量はおよそ5,700トンです。
5重6階天守台地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守」で、天守はすべて2重の入母屋造りの建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもあります。
壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられています。
大天守
外観意匠
外観は最上部以外の壁面は大壁塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風、山なりの千鳥破風に懸魚が施され多様性に富んでいます。
最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれています。
初重目 | 方杖付きの腰屋根を四方に、東面中央に軒唐破風と下に幅4間の出格子窓(でごうしまど)、北東・南東・南西の隅に石落としを設置している。 |
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2重目 | 南面中央に軒唐破風と下に幅5間の出格子窓を設けている。東西に3重目屋根と交わる大入母屋破風を設置している。 |
3重目 | 南面・北面に比翼入母屋破風、2重目から大入母屋破風が交わっている。 |
4重目 | 南面・北面に千鳥破風、東面・西面に軒唐破風 |
5重目 | 最上部。南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根、壁面は他の壁面とは違って柱などが浮き出る真壁になっている。なお、「平成の大修理」の際に最上階で使用されないまま壁として塗り込められた窓枠の跡が東西南北それぞれ2箇所の合計8箇所あったことが判明している。 |
内部構造
各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させています。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95センチメートル高さ24.6メートルの木材が使用されています。
地下 | 東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。簀の子の洗い場(流し台)と台所を付属させ、厠を3箇所設置している。 |
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1階 | 東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。 |
2階 | 1階とほぼ同様の構造。地下から2階は身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。 |
3階 | 東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。 |
4階 | 東西9間・南北6間。3階同様に石打棚がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。 |
5階 | 東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている。 |
6階 | 最上階。東西7間・南北5間。一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。長壁神社が分祀されている。 |