姫路城には数多くの歴代城主がいます。
戦国時代には黒田官兵衛や豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)などが城主をつとめたことでも知られていますが、「関ケ原の戦い」後に入城した池田輝政によって現在残る姿に大規模に修築されました。
江戸時代に入るとさらに多くの大名が入れ替わり立ち代わり城主をつとめています。
西国大名を抑えるための重要な城であったため、世継ぎが幼少の場合は国替えを行い、池田氏時代以降も、本多氏、榊原氏、酒井氏と譜代大名が城主を努めています。
姫路城の歴代城主
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | メモ |
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1 | 1346年(貞和2年) | 赤松貞範 | 赤松則村の次男称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とする。 |
2 | 1349年(貞和5年) | 小寺頼季 | 赤松則村の一族。貞範が新たに庄山城を築城して本拠地を移すと城代となり、以後は小寺氏代々が城代を務める |
3 | 1352年(文和元年) | 小寺景治 | |
4 | 1357年(延文2年) | 小寺景重 | |
5 | 1403年(応永10年) | 小寺職治 | 「嘉吉の乱」で赤松満祐に属していたため討死した。 |
6 | 1441年(嘉吉元年) | 山名持豊 | じっさいには山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。 |
7 | 1467年(応仁元年) | 赤松政則 | 赤松満祐の弟の孫。本丸・鶴見丸・亀居丸を築く。 |
8 | 1469年(文明元年) | 小寺豊職 | 政則が置塩城に本拠地を移したため城代になる。 |
9 | 1491年(延徳3年) | 小寺政隆 | 豊職の子。御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になる。 |
10 | 1519年(永正16年) | 小寺則職 | |
11 | 1531年(享禄4年) | 八代道慶 | |
12 | 1545年(天文14年) | 黒田重隆 | 則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。 |
13 | 1564年(永禄7年) | 黒田職隆 | 黒田重隆・職隆父子の時代に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張した。 |
14 | 1567年(永禄10年) | 黒田孝高 | 職隆の子。いわゆる黒田官兵衛のこと。中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、孝高は姫路城を秀吉に献上し、自らは国府山城に移る。 |
15 | 1580年(天正8年) | 羽柴秀吉 | のちの豊臣秀吉。大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。明智光秀を山崎の戦いで討ち果たしたのち、大坂城へ移った。 |
16 | 1583年(天正11年) | 羽柴秀長 | 秀吉の弟。大和郡山へと転封となったため、替わって木下家定が入った。 |
17 | 1585年(天正13年) | 木下家定 | 杉原定利の長男。秀吉の正室であった高台院の兄(弟とする説もある)。 |
18 | 1600年(慶長5年) | 池田輝政 | 織田信長の重臣・池田恒興の次男。姫路藩初代藩主。「関ケ原の戦い」の戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。8年掛けた大改修を行い、広大な城郭を築き、姫路宰相と称された。 |
19 | 1613年(慶長18年) | 池田利隆 | 輝政の嫡男。岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となった。 |
20 | 1617年(元和3年) | 池田光政 | 利隆の嫡男。幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。 |
21 | 1617年(元和3年) | 本多忠政 | 光政の転封にともない、播磨の所領は中小藩に分割され、姫路には徳川四天王のひとり本多忠勝の子、忠政が15万石で入封した。 |
22 | 1631年(寛永8年) | 本多政朝 | 忠政の次男。母は松平信康の娘・熊姫。忠刻が病死すると、宗家の嫡子となる。 |
23 | 1638年(寛永15年) | 本多政勝 | 忠政の甥。本多忠朝の次男。政朝の死去後、養子となって継いだ。「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという。 |
24 | 1639年(寛永16年) | 松平(奥平)忠明 | 奥平信昌の四男。母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。江戸幕府の宿老として幕政に重きを成した。寛永21年(1644年)3月25日、江戸藩邸で死去した。享年62。後を長男の忠弘が継いだ。 |
25 | 1644年(正保元年) | 松平(奥平)忠弘 | 忠明の長男。1634年(寛永11年)には父に伴われて将軍徳川家光に拝謁し、印籠を下賜される。 |
26 | 1648年(慶安元年) | 松平(越前)直基 | 結城秀康の五男。山形から姫路に国替えを命じられたが、そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上で死去した。享年45。 |
27 | 1648年(慶安元年) | 松平(越前)直矩 | 直基の長男。5歳で家督を相続したが、幼少のため翌年に越後村上藩に国替となる。 |
28 | 1649年(慶安2年) | 榊原(松平)忠次 | 大須賀忠政の長男で、徳川四天王・榊原康政の孫。母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許される。1663年(寛文3年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後、幕府の老職(大政参与)に迎えられた。1659年(万治2年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築。1665年(寛文5年) 死去、享年61。墓所は増位山随願寺にある。 |
29 | 1665年(寛文5年) | 榊原政房 | 忠次の子。5月11日に父の死により家督を相続する。1667年(寛文7年)死去、享年27。 |
30 | 1667年(寛文7年) | 榊原政倫 | 3歳で家督を継いだが、幼少の大名には不適と判断され、越後村上藩に転封を命じられ、同地で子がないまま没する。家督は一門榊原勝直の子・政邦が継ぐ。 |
31 | 1667年(寛文7年) | 松平(越前)直矩 | 成人後、再び姫路に復帰。生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた。1695年(元禄8年)死去、享年54。 |
32 | 1682年(天和2年) | 本多忠国 | 陸奥守山藩主・松平頼元の次男。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、2代藩主・徳川光圀の甥にあたる。1704年(宝永元年)死去、享年39。 |
33 | 1704年(宝永元年) | 本多忠孝 | 忠国の三男。徳川家康の男系の玄孫にあたる。父の死により家督を相続するが、幼少を理由に忠孝は越後村上藩に移封された。しかし、村上城に一度も入城しないまま、1709年(宝永6年)に12歳で死去した。 |
34 | 1704年(宝永元年) | 榊原政邦 | 榊原勝直の長男。原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる。1716年(正徳6年)には男山八幡宮社殿を建て替え新築。1726年(享保11年)死去、享年52。 |
35 | 1726年(享保11年) | 榊原政祐 | 榊原政邦の次男。父の死により家督を相続。1732年(享保17年)に28歳で死去。家督は養嗣子の政岑が継いだ。 |
36 | 1732年(享保17年) | 榊原政岑 | 榊原勝治の次男。将棋や三味線・浄瑠璃などに堪能で遊び好きであったことから、風流大名とも好色大名ともいわれている。8代将軍・吉宗の倹約令を無視して派手を好み、吉原遊廓の花魁を大名自ら身請けしてしまったことから幕府の怒りを買い、強制隠居の上で蟄居を命じられた。その後は後見人として政務に励み、1743年(寛保3年)2月19日に死去した。享年31。 |
37 | 1741年(寛保元年) | 榊原政永 | 政岑の嫡男。父の隠居により家督を継ぐも、越後高田に懲罰的な転封を命じられた。1807年(文化4年)死去、享年73。 |
38 | 1741年(寛保元年) | 松平(越前)明矩 | 白河新田藩主・松平知清の長男。伯父にあたる松平基知の養子となり、白河藩を相続し、その後、姫路に国替となった。明矩の墓所は姫路城の南西の景福寺山にある。 |
39 | 1748年(寛延元年) | 松平(越前)朝矩 | 明矩の長男。11歳で家督を継ぐが幼少を理由に上野前橋藩に転封。 |
40 | 1749年(寛延2年) | 酒井忠恭 | 越前敦賀藩主酒井忠菊の四男。前橋藩主となっていた長兄の親本に子がなかったため、その跡を継いだ。幕府では大坂城代や老中首座を歴任した。1749年(寛延2年)、忠恭は前橋から姫路に転封する。1772年(安永元年)に藩主在職のまま死去。 |
41 | 1772年(安永元年) | 酒井忠以 | 祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、松平治郷(不昧)と親交を深めた。 |
42 | 1790年(寛政2年) | 酒井忠道 | 忠以の長男。12歳の時に父の死により家督を継ぐ。失脚していた河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだ。1814年(文化11年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、1837年(天保8年)に61歳で死去した。 |
43 | 1814年(文化11年) | 酒井忠実 | 忠以の次男。兄である忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。1835年(天保6年)、57歳で隠居する。家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。隠居後、鷺山と号した。正室の隆姫は、黒田孝高の血筋を引いている。 |
44 | 1835年(天保6年) | 酒井忠学 | 忠道の八男。叔父である忠実の養嗣子となり家督を継ぐ。正室に11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫を迎えた。37歳で死去し、家督は娘婿で養父忠実の孫(自身の従甥にあたる)の忠宝が継いだ。 |
45 | 1844年(弘化元年) | 酒井忠宝 | 忠学(忠讜の従兄弟にあたる)の婿養子となり、忠学の死去に伴い家督を継ぐ。1853年(嘉永6年)、25歳で死去し、跡を従弟で養子の忠顕が継いだ。 |
46 | 1853年(嘉永6年) | 酒井忠顕 | 三河田原藩主・三宅康直の長男。忠宝の養女文子(第5代藩主忠学の六女で、忠宝の正室喜曽姫の妹)と結婚して養嗣子となり18歳で家督を相続した。1860年(万延元年)、25歳で死去し、養子の忠績が跡を継いだ。なお、明治維新後に忠顕未亡人の文子は一時、酒井家宗家の当主となった。 |
47 | 1860年(万延元年) | 酒井忠績 | 忠顕に子がなかったため、その養子となり、家督を相続する。江戸幕府最後の大老。1867年(慶応3年)2月に隠居し、養子の弟・忠惇に家督を譲る。1880年(明治13年)11月、終身華族に列する。1889年(明治22年)5月、永世華族に列し、男爵を授けられた。1895年(明治28年)11月30日、死去。享年69。 |
48 | 1867年(慶応3年) | 酒井忠惇 | 兄・忠績の隠居により姫路藩主となる。雅楽頭、老中を歴任する。1868年(慶応4年)2月5日に老中を罷免され、3月7日には官位を剥奪され、入京を禁止される。5月20日、隠居謹慎を命じられ、忠邦を養子に迎えて家督を譲った。1907年(明治40年)11月11日に正三位に叙され、同日69歳で死去した。 |
49 | 1868年(慶応4年) | 酒井忠邦 | 播磨姫路藩、最後の藩主。忠惇が強制隠居となり家督を継ぐと、1868年(明治元年)11月に忠邦は版籍奉還の建白書を提出、版籍奉還実施により知藩事となった。1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で免官されると、忠邦は東京へ出て、慶應義塾に入学した。同年12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米したあと帰国した。1879年(明治12年)3月25日、26歳で死去した。 |