扇坂御門は東二の丸から二の丸への入口です。
二の丸の北東にある門で、東西方向と南北方向のふたつの方向に階段がのびています。
名前の由来は、両方の階段部分にかけて扇形の坂道になっていたことによるそうです。
ちょうどいま植え込みになっている部分ですね。
なお、この扇坂御門にまつわる怪談があります。
扇坂御門は「お綱門」とも呼ばれ、門に手を触れると熱病に冒されたり、夜中にうなされたりすると長く恐れられていたそうです。
現地の案内板にもその怪談について紹介されていました。
(扇坂御門ではなく、東御門か他の門の可能性もあるそうです)
二の丸(二の丸御殿・水の手・お綱門)
福岡城の二の丸は、大きく「二の丸」、「東二の丸」、「南二の丸」に分かれ現在地は東二の丸にあたります。現在は運動場(ラグビー場)になっている北側まで石垣があって、「二の丸御殿」が建っていたようです。その南側は貯水池となる「水の手」でした。
「東二の丸」から扇坂(おおぎさか)を抜けると、現在は梅の名所として知られる「二の丸」へと続きます。この扇坂の近辺に「お綱門(つなもん)」と呼ばれる門がありました(扇坂御門か東御門か異なる門であるかは諸説あります)。柱に触れただけで熱病に冒(おか)されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、恐ろしくも哀(あわ)れな話が語り伝えられています。寛永(かんえい)の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)は参勤交代(さんきんこうたい)の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役(そばやく)の浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)に預けることに。この門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院(ちょうぐういん)に移されました。当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、妻子を顧(かえり)みなくなってしまいました。簀子町(すのこまち)の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたちを箱崎(はこざき)の下屋敷に別居させて、はじめはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度(したく)を」と本宅に下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携(たずさ)え浅野家に走りますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎(あかしひこごろう)に切りつけられてしまいました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶えたといいます。