本丸表御門跡の石段をのぼると、前方に祈念櫓が見えます。
本丸の東北隅にあるこの祈念櫓の名前は、鬼門封じの祈念をするために建立されたことにちなんでいます。
1860年(万延元年)3月に起工し、同年10月に竣工したものですが、大正7年(1918)に黒田家の菩提寺である崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、いったんは崇福寺の末寺である大正寺(北九州市八幡東区東台良)の境内に移築されました。櫓の構造はこの際に大幅に改修されたそうです。
その後は大正寺の観音堂として使用されていましたが、1983年(昭和58年)に元の位置に再移築され、翌年9月竣工しました。
建物は2階建てになっていて、棟を北西から東北に通し、鯱が上げられ、丸瓦には黒田家の藤巴が刻まれています。
1階には5畳半の茶室を付加しています。
福岡県指定文化財福岡城祈念櫓
福岡城は慶長五年(一六〇〇)筑前に入国した黒田長政が翌六年から七年の歳月をかけて築城したものです。城は東西に長い梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。その面積は四十八万平方メートルにおよび、昭和三十二年に国史跡に指定されています。
この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(一八六〇)年三月に起工し、同年十月に竣工したことが判明しています。
その後、大正七年(一九一八)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡東区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。その際の棟札によると大正九年に竣工しています。さらに昭和五十八年(一九八三)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされました。また、その間の昭和三十二年八月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。
大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明しています。二〇〇四年三月 福岡市教育委員会
祈念櫓は通常は内部を見ることができませんが、ときおり特別公開されるそうです。