潮見櫓の左手にあるのが下之橋御門(大手門)です。
福岡城の門のうち、現在も本来の位置にあるのは下之橋御門だけだそうです。
福岡城の三の丸の堀には東側に上の橋、西側に下の橋の二ヶ所の橋がかかり、それぞれに枡形門が設けられていました。
この下之橋御門は下の橋側の城門で、本来は2重(2層)の櫓門であったそうです。それが1重(1層)の門に改装された時期は不明ですが、1934年(昭和9年)に撮影された古写真によれば、当時ですでに1重であったことから、おそらくは明治時代に1重に改築されたものと推測されます。
なお、改築の際も旧来の部材を転用していて(「文化二年」の墨書が見つかっています)、2重であった痕跡もはっきり残っているそうです。
近年まで現存する貴重な城門だったのですが、2000年(平成12年)8月の不審火で焼失してしまい、2006年(平成18年)~2008年(平成20年)に本来の2重の櫓門として復元工事が行われました。
下之橋御門(しものはしごもん)
(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年かけて築かれました。城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋(かみのはし)、下之橋(しものはし)、追廻橋(おいまわしばし)にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行ない、同20年に二層櫓門(にそうやぐらもん)として復原しました。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋(げや)の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁(しっくいかべ)などが明らかになりました。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で検討されたものです。これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。
平成20年11月 福岡市教育委員会
下之橋御門を城内側から見ると、こんな感じです。
この下之橋御門も潮見櫓と並んで福岡県指定文化財に指定されています。
なお、2008年(平成20年)に復元された下之橋御門について、九州大学大学院の服部英雄教授は、中央に仕切が作られた構造について、「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要があるため、復元された構造は、史実と異なるのではないか」とコメントされています。
今後、史料や文献が見つかるなどして事実がわかるといいですね。