従来の通説では、徳川幕府への遠慮から福岡城には天守は築かれなかったとされていました。
1646年(正保3年)に作成された、福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』に天守が描かれていなかったことがその根拠です。
しかし近年になって、1620年(元和6年)に小倉藩主・細川忠興が、彼の三男で次期藩主である忠利へ宛てた手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」という天守の存在をうかがわせる記述が『細川家史料』から発見されたことによって、天守があった可能性が出てきました。
『細川家史料』にある、1620年(元和6年)3月16日付細川忠利宛て細川忠興書状の原文(抜粋)
ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。御代には城も入り申さず候。城をとられ申し候はば、御かげを以て取り返し申す可くと存じ、右の如く申し付け候よし、申し上げらると承り候
手紙にある天守の解体時期は、ちょうど徳川氏による大坂城普請に諸大名が駆り出されていた頃なので、長政は天守を解体し、それを築城資材として提供することによって幕府の信任を得ようとしたという説もあります。
2009年に北九州市立自然史・歴史博物館の永尾正剛参事が発掘した『松井文庫』にある記述がその根拠となるものです。
『松井文庫』にある記述(抜粋)
黒筑手廻(てまわし)おくられ候と、其元(そこもと)にて申し候由候、ふくおかの城をくづし、石垣も天主ものぼせられ候由、爰元(ここもと)に申し候。如何様替(いかさまかわり)たる仁に候間、其の分為る可く候
松井家は細川家の筆頭家老でのちに肥後八代城主となるほどの家柄ですから、こうした会話がなされていたとしてもおかしくはなさそうです。
記述によれば、忠興は「黒筑(黒田長政のこと)が大坂城の普請工事の遅れを取り戻すため、福岡城を崩して、石垣も天守の部材も大坂に運んでいった、という話が自分のところに入ってきた。(長政は)変わり者だから、そういうこともあるのだろう」と語っています。
一方で、九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史)は「強風を受けやすい立地条件で、天守が存在したとは考えにくい」と気象や建築学からの考証に基づいた説を主張しています。
福岡城天守の存在の有無については、もう少し調査が進まないとはっきりしなそうですね。
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