坤櫓は駿府城の南西隅にあった隅櫓です。
1854年(安政元年)の安政地震で崩壊して以来、再建されませんでしたが、2011年(平成23年)に復元工事が開始され、2014年(平成26年)4月2日に公開されました。
この坤櫓は巽櫓と同様に、地域産の木材を中心に伝統的な工法で復元され、外観は2重の屋根で内部は3階構造となっています。
外観や構造は「駿府御城惣指図」「駿府御城内外覚書」に基づいています。
城内側から入れるようになっています。
東御門・辰巳櫓の入場券では入れませんので(セット券もありませんでした)、券売所で別途購入する必要があります。
坤櫓(ひつじさるやぐら)
坤櫓は、二ノ丸南西の隅にある櫓で、1階、2階は7間×7間※、3階は5間×5間の広さがあり、2層3階の構造となっています。2階には堀側に石落としを設け、敵の侵入を防ぐ工夫がなされていました。櫓は、防御の拠点や見張り場などとして建てられますが、坤櫓には、槍が保管されていることを記した古文書が存在し、武器庫としても機能していたことがわかります。
建物の復元は、宝暦年間(1750年代)の絵図資料を基に行なわれました。発掘調査では、櫓の北東側の基底部分(櫓台)に打ち込みハギの技法で積まれた石垣が角部分で約2.5mの高さで確認されました。確認された石垣は、現在は埋め戻して保存されています。
※1間=約1.97mHitsujisaru Turret
The Hitsujisaru Turret is located in the southwest corner of the Ni-no-Maru inner citadel. It is a 3-story wooden structure with two roofs, the first and second floors being 7 x 7 ken * in size and the third being 5 x 5 ken. The second floor had murder holes on the moat side from which stones could be dropped on invaders. The tower served as much for defense as it did as a lookout post. Also, ancient records indicate stocks of spears were kept there, suggesting a third role as an armory.
The Turret has been restored according to drawings from the 1750s. Excavations revealed that the northeast corner of the foundation employed an easy and fast technique of pounded and inserted stone joinery that was about 2.5 m in height. The discovered stone wall has been reburied for preservation purposes.
* 1 ken = about 1.97 m
中に入ります。
入ってすぐのところにビデオコーナーがあります。
ビデオは「徳川家康と駿府」という駿府城の歴史を紹介した映像(約5分)と、「駿府城坤櫓の復元」というこの坤櫓の復元工事の様子を紹介した映像(約5分)の2本があります。
建物の構造を見てもらうことを意識した展示になっていて、櫓の土台をガラス越しに見えるようになっています。
しっかり組まれた太い梁も見事です。
徳川家康がオランダとの貿易を認めた際に出した朱印状の複製です。
原本はいまもオランダにあるそうです。
公園内を映したカメラを遠隔操作することができます。
残念ながら建築基準法の規制により、2階以上は入ることができないそうです。
(そのため2階の床を抜いて天井が見えるようになっています)
工事中の写真です。
坤櫓の構造
- 木造二層三階(建築基準法では木造2階)
- 本瓦葺入母屋造
- 外壁小舞土塗壁漆喰塗
- 建築面積
- 265.40m2
- 延床面積
- 488.11m2
- 建物の規模
- 七間四方(約14m)高さ七間(約14m)
- 建築工事費
- 約4億3千万円 ※建築工事費に木材購入費は含まない
- 木材購入費
- 約2億円
- 施工
- 清水建設・鈴与建設特定企業体
静岡市によって作成された坤櫓の公式パンフレットです。
また、静岡市に提供いただいた坤櫓建設工事についての資料です。
坤(ひつじさる)櫓の坤とは、城の中心からみて南西の方角にあるためそのように呼ばれています。江戸時代には、方位に干支を用いて、北を「子」として時計周りに割り当てていました。その為、南西の場合ヒツジとサルの間であるため、坤(ひつじさる)と呼ばれています。櫓は、矢倉(蔵)とも書かれ、武器庫から由来しているという説もあります。本来の目的は、戦の際の物見としての役割として最も重要な施設でありました。そのため、城の四隅や御門周辺に設けられ、その窓は、城の外側に非常に多く、内側には極端に少ない構造となっています〟現存する最も大きな櫓は、熊本城宇土櫓(九間×八間)。参考にした名古屋城未申櫓(七間×六間)、高知城天守は八間×六間、宇和島城天守は六間四方と天守と比べても大きな櫓であったと考えられます。