駿府城
駿府城

[静岡県][駿河] 静岡県静岡市葵区駿府公園1-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.55(61位)
  • 見学時間:1時間20分(34位)
  • 攻城人数:3453(19位)

徳川家康公銅像

駿府城公園内の本丸跡には徳川家康の銅像が建てられています。

銅像の手前に駿府城についての案内板があります。

駿府城
 今から約六五○年前の室町時代、今川範国(いまがわのりくに)が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元(よしもと)の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永録三年(一五六○)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永録十一年(一五六八)武田氏により駿府を追われました。
 徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(一五八二)に追放した後、同十三年(一五八五)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正十八年(一五九○)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏(なかむらかずうじ)が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長八年(一六○五)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長十年(一六〇五)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(一六○七)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪(くるわ)を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式(りんかくしき)の縄張りとしています。
 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請(てんかぶしん)」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。静岡市教育委員会
   

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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
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トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。

赤ヱ門さん)

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