静岡市によって作成され、2014年(平成26年)に発行された「るるぶ静岡市(家康公版)」です。
家康公最愛の地・駿府へ
三河国岡崎城主の長男として生まれ、8歳から19歳までの少年時代を今川氏の人質として駿府(現在の静岡市)で生活した家康公。その後も、75年の生涯のうち三分の一の約25年を駿府で過ごしている。そんな家康公ゆかりの地には、260年余りにわたる徳川時代の礎を築いた足跡が数多く残る。町を水害から守る薩摩土手、安倍川から水を引いた駿府用水と呼ばれる水路、駿府九十六カ町の町方に代表される城下町など、庶民の暮らしに配慮した先見性豊かなまちづくりは流石のひと言。第二の故郷として駿府を愛した家康公の息づかいを感じてみてほしい。
1.家康公が駿府を選んだ理由
自らの基礎を育んだ第二の故郷
少年時代の家康公は、高僧・臨済寺住職雪斎から学問を指南されるなど、今川氏の人質というよりも「人質という名の政務見習」という厚遇を今川氏より受けていたと考えられる。後々の家康公の教養や思想には駿府での生活が大きな影響を与えており、第二の故郷である駿府を選んだと考えられる。また、東海道に面し清水の港を有する交通の要衝であり、幕府のある江戸の防衛するための拠点として最適だったことも見逃せない。
2.家康公が愛したモノ、コト
大御所を魅了した駿府の名物
初夢の縁起物としてお馴染みの「一富士、二鷹、三茄子」は家康公が好んだ駿府の名物だといわれている。心洗われる富士山(三保松原)の眺め、民情視察と運動を兼ねた鷹狩り、三保・折戸で採れた滋味深い茄子。天下人の家康公にあやかって、広く知られるようになったとか。また、「お茶蔵」に銘茶を数多く納めたり、全国から工芸の技と匠を集めたりするなど、文化に対する造詣も深かった。
3.家康公が築いた城
大御所政治の舞台となった駿府の要
家康公が駿府に城を築いたのは、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国領主となった45歳の時。その後、江戸城へ移るが64歳で三男の秀忠公に将軍職を譲り駿府へ戻る。しかし、幕府の実権はしっかり掌握していた。そんな大御所政治の舞台となった駿府城は、戦の要塞だった戦国時代の城とは異なり、諸国の要人や海外からの使節を迎える迎賓館のような存在だったようだ。残念なことに、1635年(寛永12)に焼失した天守は復元されることなく現在に至っている。
75年の生涯をかけた平和への願い
駿府に城を築き戦乱の世を平定した家康公は、並々ならぬ平和への想いを抱いていた。その想いは、戦に弄ばれた幼少期には既に芽生え、度重なる戦の中で少しずつ大きくなりながら、いつしか確固たる使命感へと高まっていった。戦の旗印には「厭離穢土欣求浄土(争いの世界を離れ理想の世界を実現する)」を掲げ、大坂夏の陣の後に年号を元和と改め「和」の時代の到来を宣言。75年の生涯をかけて造り上げた平和な時代はその後260年にわたって続くのである。