浜松城の天守曲輪はほぼ当時のまま残っています。
曲輪というのは、城や砦を石や土で囲んだ所をいいます。
現在は模擬天守と井戸、そして2014年(平成26年)に復元された天守門があります。
石垣近くにはベンチも用意されていて、ゆっくり休めるようになっています。
浜松城の天守曲輪は丘陵のもっとも高い位置にあり、北東と南東の方向にはり出した菱形に近い形をしています。
周囲は低い土塁が巡らされ、その下には「鉢巻石垣」の石垣(下部は土塁で、上部だけが石垣)で守られています。東の大手側に天守門、西の搦め手側に埋門があり、内部は広場となっていました。
天守曲輪がある城は掛川城や和歌山城など豊臣秀吉にゆかりのある武将が築いた城に見られるため、なんらかの関わりがあると想像されます。
天守曲輪(てんしゅぐるわ)
浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。この天守曲輪の出入口として東に大手(おおて)である天守門(てんしゅもん)、西に搦手(からめて)である埋門(うずみもん)を配置している。
浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしている点が特徴である。これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、石垣造りの曲輪としては古相(こそう)を留めた形といえる。また曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。
天守曲輪は掛川城、和歌山城等にも見られるが、類例は決して多くない。掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉晴の同輩である山内一豊が、和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。