浜松城
浜松城

[静岡県][遠江] 静岡県浜松市中央区元城町100-2


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.46(72位)
  • 見学時間:1時間4分(65位)
  • 攻城人数:3566(24位)

浜松城の天守

浜松城の天守がどんな姿だったかはいまだにわかりません。
江戸時代には天守は存在しなかったようで絵図にも記載がなく、本丸にあった二重櫓が天守代用とされていました。

現在の天守は1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものです。
天守の存在が曖昧なことから模擬天守とも、復興天守とも呼ばれます。

内部は資料館として使われており、徳川家康をはじめとした当時のゆかりの品々を見学することができます。
(すべて撮影可能です)

地下には井戸が残されています(水はありません)。
この井戸は1957年(昭和32年)、天守再建に先立って調査されました。

浜松城の井戸について
 浜松城の天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにしたもので、この時代、他の城郭にも多く見られる。浜松城の他に名古屋城、松江城などにも天守穴蔵に井戸がある。
 井戸は、城内に住む人々の飲料水として、また戦いの時には籠城になることも想定し、最後の拠点として天守内部や、天守の間近に設けられることがあった。

マンガ『センゴク』の原画も展示されていました。
(三方ケ原合戦の様子が描かれています)

復元模型もあるので、当時の城下の様子がよくわかります。

最上階からは天守門を上から見ることができます。

あと2階には「開運さま」として、出世大名家康くんが祀られています。
「出世の街 浜松」PRプロジェクトの一環として、浜松市が製作したものだそうです。

1Fにはおみやげコーナーがあります。家康くんグッズなど、たくさん種類がありました。

天守前、天守門をくぐったところに案内板があります。

浜松城跡
 浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(一五七〇)六月に入城し、十七年間在城した。東西六〇〇メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。浜松市
RUINS OF HAMAMATSU CASTLE
Hamamatsu Castle was built by Ieyasu Tokugawa as a stronghold for attacks on the Enshu Area. He entered the castle in june, l570 (the 1st Year of Genki) and stayed in it for 17 years. It was constructed on a scale extending in distance 600m from east to west and 650m from north to south. The front gate opened to the south on the Tokaido Route. Extending from east to west were the "SAN-NO-MARU" (outermost outworks), the"Nl-NO-MARU" (intermediate outworks), "HON-MARU" (keep), and "TENSHU-DAI" (area for the donjon), each becoming higher in order in level.
All the castle lords were from "daimyo" in hereditary vassalage to the Tokugawas and many of them were promoted to the distinctive membership in the "ROJU" (Shogun's Council of Elders). As a result, this castle was called "the castle of success." Tadakuni "Echizen-no-kami" Mizuno is the best known of all, The castle's stonework was of a sturdy build referred to as "NOZURA-ZUMI" typical of an old type of stonework, and is designated as one of the historic relics of Hamamatsu City.
浜松城の石垣(野面積み)
 浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに思えますが、四百年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松城跡の中で文化財として価値の高い部分です。
 この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式です。慶長(一五九六〜一六一五年)以前はこの方法が多く用いられていたと言われています。各段の積み方は、布積(ぬのづみ)と呼ばれる、石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、布の横糸が通ったように積む技法が採用されています。しかし、石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから、横の通りが乱れた部分が多くあり、布積崩し(ぬのづみくずし)と呼ばれることもあります。
 不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、小さな面を内にして積みます。隙間に背後から飼石(かいいし)を入れて、石が動かないように固定します。背後(内側)には多量の栗石(ぐりいし)を詰めて強化します。栗石は約一〜一・五メートルほど詰めてあり、さらに砂利を入れてあるので水はけも良く、水圧で崩れることはありません。
 石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあります。これを間石(あいいし)と呼びます。この石は、石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていません。間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言えます。
 浜松城は、特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を、小口(こぐち)と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、五七度〜七八度の傾斜をしています。
 石垣に用いた石材は珪岩(けいがん)と呼ばれる石がほとんどで、そのほか石灰岩(せっかいがん)、結晶片岩(けっしょうへんがん)などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、現在の庄内地区の大草山(おおくさやま)や根本山(ねもとやま)、対岸の湖西市知波田(ちばた)付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。
 この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、浜松城二代目城主堀尾吉晴の頃(一五九〇年頃)という説が有力です。
   

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光秀の定理 (単行本)

主人公は光秀ではない、架空の侍と僧。信長の近江攻略のあたりまでの物語。後日談的に本能寺の変についても語られている。
モンティ・ホール問題と長光寺城攻略を組み合わせたやや斬新な内容。
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土耳古法師(仮)さん)

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