徳川家康が江戸幕府を開き、隠居先として駿府に入城したあと、駿府の西に位置する浜松城はおもに家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。
おおむね5万石前後で、浜松藩政300年の間に、再任を含め、25代の城主が誕生しましたが、そのうち老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任含む)が登用されました。
歴代城主(藩主)の出世の状況(寛政重修諸家譜による)
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | 役職 |
---|---|---|---|
1 | 1570年(元亀元年) | 徳川家康 | 江戸幕府初代将軍 |
2 | 1586年(天正14年) | 菅沼定政(城代) | |
3 | 1590年(天正18年) | 堀尾吉晴 | |
4 | 1599年(慶長4年) | 堀尾忠氏 | |
5 | 1601年(慶長6年) | 松平忠頼 | |
6 | 1609年(慶長14年) | 水野重仲 | |
7 | 1619年(元和5年) | 高力忠房 | |
8 | 1638年(寛永15年) | 松平乗寿 | 老中 |
9 | 1644年(寛永21年) | 太田資宗 | |
10 | 1671年(寛文11年) | 太田資次 | 寺社奉行 |
11 | 1678年(延宝6年) | 青山宗俊 | |
12 | 1679年(延宝7年) | 青山忠雄 | |
13 | 1685年(貞享2年) | 青山忠重 | |
14 | 1702年(元禄15年) | 松平資俊 | |
15 | 1723年(享保8年) | 松平資訓 | |
16 | 1729年(享保14年) | 松平信祝 | 大坂城代、老中 |
17 | 1744年(寛保4年) | 松平信復 | |
18 | 1749年(寛延2年) | 松平資訓 | 京都所司代 |
19 | 1752年(宝暦2年) | 松平資昌 | |
20 | 1758年(宝暦8年) | 井上正経 | 老中、寺社奉行 |
21 | 1766年(明和3年) | 井上正定 | 奏者番 |
22 | 1786年(天明6年) | 井上正甫 | 奏者番 |
23 | 1817年(文化14年) | 水野忠邦 | 寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中 |
24 | 1845年(弘化2年) | 水野忠精 | |
25 | 1845年(弘化2年) | 井上正春 | |
26 | 1847年(弘化4年) | 井上正直 | 寺社奉行、老中 |
「はま松は、出世城なり、初松魚」という松島十湖の句も残されています。
なかでもとくに有名な城主は、「天保の改革」の推進者で知られる水野忠邦です。唐津藩主時代に昇格のため、願い出て浜松藩主となり、頭角をあらわし、のちに老中となったといわれています。
余談ですが、この水野忠邦が願い出て浜松藩主となったという話にはおもしろいエピソードがあります。
唐津藩は表向きは6万石といっても実質は25万石相当の中大名クラスでした。当時、幕府の老中となるには、通常5万石以上の譜代大名という規定がありましたが、同時に井伊家など一部の例外をのぞいて中大名以上は要職につけないという方針があったため、唐津藩主の水野忠邦は自ら領地替えを申し出て、表向きも実質も6万石の浜松藩主になったそうです。
詳しくは『風雲児たち』(ワイド版16巻)でお楽しみください。