亀山城は織田信長の命を受けて丹波攻略を任された明智光秀によって築かれた城です。
このときに築かれたのは3重3階の天守でした。
その後、山崎の合戦で光秀が敗れると、羽柴秀吉(豊臣秀吉)方の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の四男)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫)・豊臣秀俊(のちの小早川秀秋)のほか、豊臣政権で五奉行のひとりとして仕えた前田玄以などが城主をつとめました。
このうち、豊臣秀俊が1593年(文禄2年)に天守を5重5階に改築しました。ただしこの天守がいつ破却されたのかは不明です。
(余談ですが、豊臣秀俊が小早川隆景と養子縁組させられ小早川秀秋となったのはこの翌年です)
そして江戸時代に入り、天下を手中にした徳川家康も京に近いこの亀山城を重要視し、岡部長盛などの譜代大名を入封させました。
さらに「天下普請」により西国大名に命じて近世城郭として大修築を行います。築城名人と名高い藤堂高虎が縄張りをした城は1610年(慶長15年)の夏頃に完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がりました。
この層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守は、1877年(明治10年)に解体されました。
大天守の最上階には飾りの回り縁、高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで、それ以外の階や重には、装飾的な窓や破風は一切ありませんでした。
現在は積み直された天守台の石垣を見ることができます。
今治城天守移築説
亀山城天守は今治城天守を移築したという説もありますが、詳細は不明です。
今治城の天守は、藤堂高虎によって(元々自身の居城である)伊賀上野城に移築する目的で解体され藤堂家の大坂屋敷に運び込まれていたところ、1610年(慶長15年)の亀山城の天下普請が発令されたため、これを徳川家康へ献上して、亀山城へ移築されたとする説があります。
この説は「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」という『寛政重修諸家譜』の記述が根拠となっているものの、今治城には天守台がなく、また天守の存在を証明する遺構も見つかっていないことからそもそも天守は存在しなかったという説などもあり、移築説についても確証はありません。
最初の層塔型天守説
亀山城の天守を「日本初の層塔型天守」であるとする見解もあります。
ただし前述の今治城天守移築説が正しい場合は、今治城天守が層塔型天守の初見とする説もあります。
初かどうかはともかく、亀山城天守が層塔型天守の誕生初期につくられたことはまちがいなさそうです。