明智光秀が亀岡の地に城を築いて以来、ここは京の背後にあたることから豊臣秀吉や徳川家康にも重要視されました。
小早川秀秋や前田玄以といった有名な武将も城主をつとめています。
江戸時代には譜代大名などが藩主をつとめ、1749年(寛延2年)に松平信岑が亀山藩主となると、以降は形原松平家(かたはらまつだいらけ)が明治維新まで藩主をつとめました。
亀岡城(丹波亀山城)の歴代城主
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | メモ |
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1 | 1578年(天正6年) | 明智光秀 | 1575年(天正3年)に織田信長の命により丹波侵攻を開始した光秀が築城。1577年(天正5年)の説もあり。 |
2 | 1583年(天正11年) | 羽柴秀勝 | 「山崎の合戦」で光秀が敗れ、清洲会議で丹波が羽柴秀吉の領地となると信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(於次)が入城するが、1585年(天正13年)に死去。 |
3 | 1585年(天正13年) | 豊臣秀勝 | 秀吉の甥に当たる豊臣秀勝(小吉)が代わって城主となるが、1590年(天正18年)に徳川家康が関東に移封されたことにともない甲斐に転封することになる。 |
4 | 1591年(天正19年) | 羽柴秀俊 | 豊臣秀勝の甲斐入部後はさまざまな武将が短期間で城主をつとめたが、豊臣秀吉の天下統一後、秀吉の甥で養子となった羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)が城主となる。 |
5 | 1595年(文禄4年) | 前田玄以 | 豊臣政権下の京都所司代であった前田玄以が入部する。 |
6 | 1602年(慶長7年) | 前田茂勝 | 1602年(慶長7年)5月に前田玄以の死去後、子の前田茂勝が継いだが、茂勝は丹波八上藩に移封され、亀山藩は天領となる。 |
7 | 1609年(慶長14年) | 岡部長盛 | 徳川氏譜代の家臣である岡部長盛が下総山崎藩から移封され、亀山藩が再立藩された。大坂の豊臣秀頼に備えて、1610年(慶長15年)には西国大名を総動員して亀山城の天下普請が行われる。 |
8 | 1621年(元和7年) | 松平成重 | 三河西尾藩より大給松平家の松平成重が2万2000石で亀山藩主となる。1633年(寛永10年)9月16日、40歳で死去した。 |
9 | 1633年(寛永10年) | 松平忠昭 | 松平成重の次男。兄・勝広が1631年(寛永8年)12月に没したため嫡子となり、父の死去により家督を継いで藩主となる。1634年(寛永11年)に豊後亀川に移封される。 |
10 | 1634年(寛永11年) | 菅沼定芳 | 近江膳所藩より菅沼定芳が4万1000石で入部。1643年(寛永20年)1月17日に死去した。享年57。 |
11 | 1643年(寛永20年) | 菅沼定昭 | 菅沼定昭が父の死去により家督を継ぐが、1647年(正保4年)9月21日、丹波亀山にて23歳で死去した。嗣子がなく無嗣改易となった。 |
12 | 1648年(慶安元年) | 松平忠晴 | 菅沼氏に代わって藤井松平家の松平忠晴が3万8000石で入る。1667年(寛文7年)の閏2月9日、次男・忠昭に家督を譲って隠居した。 |
13 | 1667年(寛文7年) | 松平忠昭 | 父の隠居により家督を相続する。異母弟の忠周を嗣子とする。1683年(天和3年)に死去。 |
14 | 1683年(天和3年) | 松平忠周 | 忠昭の死後、家督を巡って家臣間の権力抗争が生じたが、忠晴の遺命どおり家督を相続した。1686年(貞享3年)1月21日、武蔵岩槻藩へ移封となる。幕府では側用人、京都所司代、老中を歴任した。 |
15 | 1686年(貞享3年) | 久世重之 | 備中庭瀬藩より5万石で入部するが、1697年(元禄10年)に三河吉田藩へ移封となる。 |
16 | 1697年(元禄10年) | 井上正岑 | 美濃郡上藩より4万7000石で入部するが、1702年(元禄15年)に常陸下館藩へ移封される。 |
17 | 1702年(元禄15年) | 青山忠重 | 1702年(元禄15年)9月7日、遠江浜松藩から5万石で入部する。1722年(享保7年)6月18日に家督を四男の俊春に譲って隠居したが、直後の10月28日に死去。享年69。農業振興策に貢献し、丹波大納言小豆のきっかけをつくった。 |
18 | 1722年(享保7年) | 青山俊春 | 父の隠居により家督を継いだが、1730年(享保15年)7月18日に死去した。享年31。 |
19 | 1730年(享保15年) | 青山忠朝 | 俊春の養子。1748年(寛延元年)8月3日に丹波篠山藩に国替となった。幕府では寺社奉行、大坂城代を歴任した。 |
20 | 1749年(寛延2年) | 松平信岑 | 丹波篠山藩から形原松平家の松平信岑が入部する。1763年(宝暦13年)11月20日に死去した。享年68。 |
21 | 1763年(宝暦13年) | 松平信直 | 松平信岑の弟・松平庸倫の長男。1749年(寛延2年)、伯父・信岑の養子となり、1763年(宝暦13年)の信岑の死去により家督を継いだ。 |
22 | 1781年(天明元年) | 松平信道 | 松平信直の長男。1781年(天明元年)閏5月27日、父の隠居により家督を継いだ。幕府では寺社奉行を務め、寛政の改革では松平定信の側近として幕政に参与している。藩政においては、1789年(寛政元年)に「領中刑律89条」という法令を制定している。1791年(寛政3年)8月18日に死去した。享年30。 |
23 | 1791年(寛政3年) | 松平信彰 | 松平信道の長男。父の死去により10歳で家督を継いだ。1802年(享和2年)9月に死去。享年21。 |
24 | 1802年(享和2年) | 松平信志 | 信彰が早世したため、その養子として家督を継いだ。1816年(文化13年)4月に死去した。享年32。 |
25 | 1816年(文化13年) | 松平信豪 | 幕府大老・井伊直弼の舅にあたる。松平信志の七男として生まれる。父の死去により家督を継ぎ、藩政では家臣や領民の教育化、藩校の拡張などに努めた。1843年(天保14年)2月9日、養子の信義に家督を譲って隠居する。1865年(慶応元年)10月に死去した。享年53。 |
26 | 1843年(天保14年) | 松平信義 | 信豪の養子となり、養父の隠居により家督を継いだ。幕府では寺社奉行、大坂城代、老中・外国事務取扱などを歴任。桜田門外の変、坂下門外の変などで幕末の世情不安な時期にあり、信義は養父・信豪が井伊直弼の姻戚であった関係から「安政の大獄」に協力した経緯があり、水戸藩浪士らのテロの標的とされたこともある。1866年(慶応2年)、家督を養子の信正に譲って隠居し、直後の1月29日に死去した。享年43。 |
27 | 1866年(慶応2年) | 松平信正 | 丹波亀山藩、最後の藩主。松平信豪の七男として生まれる。信義の養子となり、1866年(慶応2年)に家督を継いだ。幕末期は佐幕派だったが、1868年(慶応4年)の戊辰戦争で新政府の圧力を受けて降伏し、東征に参加している。1869年(明治2年)の版籍奉還で亀山藩知事となり、亀山を亀岡と改称した。1871年(明治4年)、廃藩置県で知藩事を免官される。1909年(明治42年)10月28日に死去した。享年58。 |