山崎の合戦(山崎の戦い)は「天王山の戦い」とも呼ばれる合戦で、1582年(天正10年)6月2日の「本能寺の変」を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍勢(約4万0000)が、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎の地(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)において、明智光秀の軍勢(約1万6000)と激突した戦いのことです。
合戦の概要
天王山の中腹にある旗立松展望台に設置された案内板にまとめられていたので、その内容を紹介します。
天下分け目の天王山天正・山崎合戦
天正10年(1582)年6月2日、京本能寺(ほんのうじ)で織田信長が討たれた。その報は2日後、中国地方備中高松城攻めを信長から命ぜられていた羽柴秀吉の元にも届いた。秀吉は急遽(きゅうきょ)毛利氏との和睦(わぼく)を成し山陽道、西国街道をひた走り京を目指した。一方、主君信長を討ち、京、近江を制圧した明智光秀は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めた。6月13日午後4時頃戦いは始まった。秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わった。敗北を知った明智の兵は方々に逃散し、光秀も本陣背後の勝竜寺(しょうりゅうじ)城に一時退去、夜陰に乗じて僅かな手勢を伴って近江へと逃れていった。一行は桃山丘陵を越えた小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍に掛かり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯に終止符を打った。合戦直後、秀吉は天王山一帯に城を築城し、大山崎から天下統一へと乗り出すことになる。
2005.6.吉日 大山崎町
展望台から見た合戦地の景色です。ちょうど写真中央にある大山崎JCTのあたりが両軍が対峙した場所になります。
合戦の経緯
「本能寺の変」が起きた際、秀吉は備中高松城を包囲して、毛利勢と交戦中でした。
翌6月3日夜から4日未明にかけて変報を入手した秀吉は、ただちに和議を結び、4日の10:00頃には堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして城主・清水宗治の自刃の検分を行い、さらに翌5日から6日にかけて撤兵して、いわゆる「中国大返し」と呼ばれる機敏さで畿内へ急行しました。
「中国大返し」の行程
備中高松城から山崎までの約200kmを約10日間で踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られています。
行軍を開始したのは、清水宗治の自刃を見送ってすぐの6月4日の午後とする見解もありますが、『浅野家文書』や『惟任謀反記』などの史料から6月6日未刻(14:00頃)とする説が有力です。
(『1996大山崎町歴史ガイドブック』には6月5日未明に行軍開始とあります)
6日のうちに沼城に入り、7日夕方には当時の秀吉の本拠地であった姫路城まで帰還しています。
秀吉軍は、9日朝まで姫路城で滞留し、休養にあてるとともに、城内に備蓄していた金銭・米穀をすべて配下の将兵にわけあたえました。
9日未明に姫路城を出発した秀吉軍は正午に明石に到着。翌10日朝に明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進みます。10日夜は兵庫で充分に休息し、翌11日朝に出発し、夕方には尼崎へ到着したと考えられます。
12日は富田まで進軍して野営し、13日の昼頃についに山崎に着陣しました。
日付 | 区間 | 距離(合計) |
---|---|---|
6日 | 備中高松城〜沼城 | 22km |
7日 | 沼城〜姫路城 | 70km(92km) |
8日 | (姫路城で休息) | |
9日 | 姫路城〜明石 | 35km(127km) |
10日 | 明石〜兵庫 | 18km(145km) |
11日 | 兵庫〜尼崎 | 26km(171km) |
12日 | 尼崎〜富田 | 23km(194km) |
13日 | 富田〜山崎 | 6km(200km) |
一方の光秀は、「本能寺の変」で混乱する京の治安維持に当たり、つづいて近江を掌握するために臣従した武田元明・京極高次らの軍を派遣し、自らも6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えています。
近江を優先したのは当時、織田家中で最大の力を持っていた筆頭家老の柴田勝家への備えを最優先したためと考えられます。
光秀は7日には安土で勅使の吉田兼和(兼見)と面会し、翌8日に安土を発って京都に帰還しました。
この間、有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子に断られ、また筒井順慶も秀吉側に寝返ったため、十分な兵力を集めることができませんでした。
こうした状況下で光秀は10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城と勝龍寺城の修築に取り掛かっています。
これは京街道を通って来るなら淀城が、西国街道を通って来るなら勝龍寺城が、それぞれ京への最終防衛ラインとなるからで、当時、堺には四国の長宗我部征伐のために神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀が布陣しており、信孝軍が京へ向かうには京街道、また秀吉が京へ向かうには西国街道を通ることが予想されたためです。
合戦の経過
山崎の合戦は6月13日の16:00頃、雨が降りしきる中はじまり、短時間のうちに勝負は決しました。
秀吉の本陣は、現在も残る宝積寺に置かれました。宝積寺には秀吉が、山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したと伝えられる三重塔が現存しています。
光秀の本陣は御坊塚(大山崎町下植野境野30-13)にある境野古墳群に置かれたというのがこれまでの定説で、現地には大山崎町の設置した「光秀本陣跡」の説明板もありますが、2011年(平成23年)に大山崎町に隣接する長岡京市の大阪成蹊大学構内の発掘で大規模な堀跡が見つかり(恵解山古墳)、同市埋蔵文化財センターによれば、ここが光秀の本陣跡だと発表されています。
(なお、現在は大阪成蹊大学のキャンパスは移転し、跡地は立命館中学校・高等学校になります)
陣形図
大山崎町歴史資料館で購入した『1996大山崎町歴史ガイドブック』に掲載されていた陣形図をもとに作成しました。
両軍の参戦武将
『太閤記』などによると、おおよそ以下のような武将が合戦に参加していました。
なお、秀吉軍は2万7000の説もあります。
秀吉軍(約4万0000)
- 高山右近・木村重茲:2000
- 中川清秀:2500
- 池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000
- 丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)
- 織田信孝:4000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)
- 秀吉本隊(蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治・蜂屋頼隆など):20000
光秀軍(約1万6000)
- 美濃衆 斎藤利三・柴田勝定:2000
- 近江衆 阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝):3000
- 山城・丹波衆 松田政近・並河易家:2000
- 旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000
- 河内衆 津田正時:2000
- 光秀本隊(藤田行政など):5000
敗れた光秀はいったんは勝龍寺城に入り、夜陰に紛れて居城である坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)の藪(京都市伏見区)で土民の落ち武者狩りに遭い、命を落としています。
(この地は現在、「明智藪」と呼ばれています)
なお、山崎の地は天王山と淀川にはさまれた非常に狭い地域で、もっとも狭い場所では山裾から川岸まで200mほどしかなく、もし光秀がここに布陣していれば兵力差を無効化することができたかもしれません。
しかしそうしなかったのはその場所が大山崎の町の中心であり、光秀が町に「禁制(きんぜい)」を出していたため、それを守ったからだと考えられています。「禁制」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事柄を広く知らせるために作成した文書のことで、この場合は町を戦火にさらさぬように約束をとりつけることをさします。
(大山崎の町は「本能寺の変」の翌日に光秀から禁制をもらっているそうです)
他の織田家有力家臣らの動き
柴田勝家
「本能寺の変」が起きた際、魚津城で上杉勢と交戦中(魚津城の戦い)でした。
勝家は上杉対策を前田利家、佐々成政らに託して京に向かいましたが、越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に到達したところで合戦の報が入り、京へは向かわずそのまま清洲城に向かっています。
滝川一益
「本能寺の変」が起きた際、厩橋城で北条勢を牽制していました。
織田信長・信忠の死に乗じて北条軍が上野に侵攻し、「神流川の戦い」が起きています。第一次合戦で北条勢を退けるものの第二次合戦で大敗しました。 本拠地・伊勢に7月に帰還しましたが、清洲会議にも参加できず、以後零落の一途をたどります。
徳川家康
「本能寺の変」が起きた際、堺で近習数名と見物中で、帰国途路の飯盛山(四条畷市)付近で凶報に接しました。
いわゆる「神君伊賀越え」を経て岡崎城に戻り、そこから光秀討伐に向かったものの、山崎の合戦の情報が入ったため、反転して空白地帯となった甲斐・信濃の領土化を切り取るために侵攻しました。
同じく甲斐・信濃の領土化を目指した北条氏と天正壬午の乱で戦っています。