現在、山崎城の本丸跡には石垣や井戸などがわずかに確認できるだけです。
山崎城跡
大山崎周辺は京都の出入り口にあたり、南北朝内乱や応仁・文明の乱の際、しばしば戦場となった。その際、軍勢が天王山山頂(標高二七〇メートル)に陣取り、城が築かれることも見られた。
天正一〇年(一五八二)六月、山崎の合戦で勝利した羽柴(後の豊臣)秀吉は、翌七月、山頂に山崎城を築き、大山崎を城下町として保護した。この時、秀吉は織田信長の後継者を意識し、千利休らと大山崎で茶会を開いた。
しかし、大坂築城が本格化すると、同一二年四月に山崎城は破却された。この時、山崎城の「天主」も取り壊されたといい、高層建築物があったことがわかる。山頂周辺は、字「古城」と呼ばれ、後世も城跡として認識されていた。
現在も天守台、曲輪、土塁、空堀、井戸、食い違い虎口、石垣などが残存する。
平成二五年三月大山崎町教育委員会
一段高くなっている部分がかつての天守台です。
おそらくは天守といっても、小規模なものであったと思われます。
天王山山頂を示す標札があります。
ここに積まれているたくさんの石は訪問者が勝手に置いているだけで、とくに天守台の石垣というわけではないそうです。
(ただ石垣として使われていた石も含まれているはずです)
天守台を背にして右側、本丸の西側にあたる曲輪に石垣がわずかに残っています。
場所が少しわかりにくいのですが、本丸から一段下りて、そのままギリギリまで歩いていくと斜面に石垣が見えます。
正面から見るには、少し迂回して斜面を下りることになります。
それほど大規模ではないのですが、野面積みの石垣が良好な状態で残っているのは貴重です。
石垣のおおよその位置を現地案内板の地図を使って示しますので、参考にしてください。
また、本丸の南西側には井戸があります。
こちらは落下防止用の柵がありますので、簡単に見つけられるはずです。
本丸には天王山歴史マップと書かれた案内板もあり、周辺の歴史スポットが紹介されています。