宝積寺(ほうしゃくじ)は山崎城のある天王山の中腹にある、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が開いたとされる真言宗の寺院です。
行基は東大寺にある奈良の大仏建立の実質上の責任者として招聘された高僧で、日本で最初の「大僧正」でもあります。また行基は725年(神亀2年)、淀川に「山崎橋」を架けたそうです。
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいいます。
宝積寺
- 宗派
- 真言宗智山派
- 開基
- 行基
- 文化財
- (重文)神像・倶生神坐像・闇黒童子坐像・閻魔王坐像・木造司録坐像・木造司命坐像・十一面観音立像・金剛力士立像・三重塔
一般には宝寺の名で知られており、本町に現存する寺院の中で最も古い歴史を誇る。
寺伝によると奈良時代に聖武天皇の勅願寺として僧行基が開創したと伝え、その後、長徳年間(九九五~九九九)寂照が中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛り上がった。さらに嘉慶三年には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
戦国時代の終り、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も山崎城の一部として利用されたと伝えられる。
しかし、幕末の動乱は宝寺にもおしよせ、元治元年(一八六四)の兵火と廃仏毀釈で寺運はすっかり衰微したがじょじょに寺観、寺域も復興され今日にいたった。現在、乙訓地方で最も多くの文化財を保有する寺院で、見るべき仏像が多くある。
昭和六十一年三月大山崎町教育委員会
鎌倉時代の傑作といわれる本尊の十一面観音像をはじめ、重要文化財が多く存在し、なかでも参道沿いにある三重塔は羽柴秀吉が「山崎の合戦」の際に一夜にして建てたといわれ、美しい桃山建築様式をいまに伝えています。
本堂の脇には「秀吉 出世石」と呼ばれる石があります。
「山崎の合戦」では、秀吉は一時この寺を陣所とし、その際にこの石に腰掛けたという言い伝えがあるようです。
合戦直後に秀吉により天王山に築城された山崎城にも取り込まれ、そのことから山崎城は「宝寺城」とも呼ばれます。
山門にある阿吽の金剛力士像も重要文化財に指定されています。
山門の脇にある説明板です。
天王山と勝龍寺城跡コース
天正10年(1582)6月、明智光秀は主君である織田信長を京都本能寺で討ちました。しかし、中国大返しを決行した羽柴秀吉は備中高松城から京へと向かい、両軍は天王山付近で激突します。数に勝る秀吉軍に追われた光秀は細川藤孝の居城であった、勝龍寺城にのがれ、近江坂本城へと夜陰に乗じて落ちのびようとしましたが、山科の小栗栖で土民の槍に討たれ無念の最後をとげます。短命に終わった天下は「三日天下」の語源にもなっています。天王山から北東の方向の、JR長岡京駅の南側に美しく整備された勝龍寺城公園があり、天王山から格好の合戦のあとをたどるハイキングコースになっています。宝積寺
寺伝によると、奈良時代に聖武天皇が僧行基(ぎょうき)に命じて建立したといわれる古寺です。境内は広く、山門から一直線にのびる参道の右側には桃山時代の建築で重文の三重塔、さらに進むと本瓦葺きの堂々とした本堂があります。寺宝も多く、特に仏像彫刻に見るべきものがあり、本尊十一面観音立像、金剛力士像、閻魔王坐像、倶生神坐像、暗黒童子(あんこくどうじ)坐像、司録(しろく)坐像、司命(しみょう)坐像が重文に指定されています。また、本堂横にある小槌の宮には大黒天が祠(まつ)られ、打出と小槌によって福徳がさずけてもらえる祈祷が行われ、現世利益を願う人々でにぎわっています。年間行事にも見るべきものが多く、節分祭や鬼くすべなど興味深いものがあります。 歴史街道
宝積寺の観光情報
住所 | 京都府乙訓郡大山崎町大字大山崎字銭原1 |
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山号 | 天王山、銭原山(旧・補陀洛山) |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 十一面観音(重要文化財) |
開門時間 | 9:00~16:00 |
休館日 | 年中無休 |
拝観料 | 境内参拝無料、閻魔堂拝観有料(400円) |
URL | http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=485 |