「山崎の合戦」で明智光秀が本陣をおいたとされる「御坊塚」は境野1号墳ではなく、恵解山古墳(いげのやまこふん)とする説が最新の学説となっています。
もともと「御坊塚」は『甫安太閤記』『細川家記』『新撰豊臣実録』などにもその名が載っているものの、参謀本部編の『日本戦史 山崎の役』付図では恵解山古墳に比定された一方で、長岡京研究の第一人者ともいうべき中山修一氏は境野1号墳に比定しており、「御坊塚」の位置については説がわかれていましたが、現在は「恵解山古墳説」が有力のようです。
2011年(平成23年)に長岡京市埋蔵文化財センターが発表した内容によると、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡が見つかったほか、幅4~5m、深さ約2mで、49mにわたる堀跡が確認されています。
滋賀県立大学の中井均准教授は「堀の形状も全国の陣城の事例と似ており、遺物が少ないのも急ごしらえで造る陣城の特徴。平野部にぽつりとある恵解山古墳は戦略上も陣地を置くのに適している。堀が東西にも伸びて古墳を囲んでいた可能性もある」とコメントされています。
恵解山古墳は現在、史跡公園として整備工事がなされています。2014年(平成26年)10月に完成予定だそうです。
近くにある歩道橋の上から見てみました。
ちょうど古墳を向いて立つ位置に案内板があります。
天王山と山崎合戦(てんのうざんとやまざきかっせん)
天王山
山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の国境に位置する標高270mの山。麓に京と西国を結ぶ街道や淀川があるこの地は、古くから戦略上の要衝でした。勝敗の分岐点を意味する「天下分け目の天王山」は、この地で起こった山崎合戦から生まれました。
山崎合戦
天正10年(1582)の本能寺の変を受けて、中国征討から帰参した羽柴(豊臣)秀吉軍は山崎に布陣し、対する明智光秀軍は勝龍寺城を拠点として迎え撃ちました。戦いは短期間で勝負が決まり、勝利した秀吉は後に天下統一を成し遂げました。
史跡 恵解山古墳
乙訓地域最大の前方後円墳で、5世紀前半頃に桂川以西を支配した首長の墓と考えられています。昭和55年(1980)には、前方部から約700点にもおよぶ鉄製武器類を納めた副葬品埋納施設が見つかりました。また、墳丘斜面には葺石(ふきいし)が葺かれ、テラス面や造出部には数多くの埴輪が立ち並んでいました。
平成26年、史跡公園としてオープン。
【史跡概要】
- 古墳時代中期築造(今から約1600年前)
- 前方後円墳
- 全長 128m
- 後円部の直径 78.6m
- 前方の幅 78.6m
- 1981年10月 国史跡指定