埋木舎(うもれぎのや)は、1759年(宝暦9年)頃に創建された旧彦根藩主井伊家の屋敷跡で、のちに大老となった井伊直弼が15代彦根藩主になるまでの不遇の時期を過ごしたことで知られています。
なお「埋木舎」の名前は直弼による命名で、自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、次のような歌を詠んだことから名付けられました。
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
本来は「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」の名で呼ばれていたそうです。
この埋木舎はいわゆる「控え屋敷」のひとつでした。
当時、彦根藩井伊家では(世継ぎ以外の)藩主の子は他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされており、行き先が決まらない間は、父が藩主の間は下屋敷(槻御殿)で一緒に暮らしていました。
しかし兄が藩主になると下屋敷を出なければならず、「控え屋敷」と呼ばれる城下の屋敷に入って暮らしました。そのため下屋敷のような立派な建物ではなく、大名の家族の住居としてはきわめて質素で、中級藩士の屋敷とほぼ同等の造りとなっています。
埋木舎は1871年(明治4年)、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至ります。
1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊したため全面的に解体修理、また翌年からは発掘調査が行なわれました。現在は直弼が住んでいた当時のように復元され、内部も一般公開されています。
井伊直弼と埋木舎
彦根藩13代藩主・井伊直中の十四男として生まれた直弼は、5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父が亡くなったため、まだ養子先が決まっていなかった弟の直恭とともにこの控え屋敷に入っています。
養子の口がなかったのは、兄弟が多かった上に庶子であったことも関係しているそうです。
直弼が20歳のときに養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向いたものの、決まったのは直恭の日向国延岡藩内藤家の養子縁組だけで、直弼には養子の話がありませんでした(この縁組で直恭は内藤政義と改名しています)。
直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、けっきょく17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごすことになりました。
ちなみに「捨扶持」というのは現在「役に立たない者へ捨てるつもりで与える給料や生活費」とあまり良くない意味で使われる事が多い言葉ですが、もともとは江戸時代に由緒ある家の老幼・婦女・身体障害者などに救助のために与えた扶持米のことを指した言葉で、保障制度や救済制度の意味合いもありました。
直弼はこの屋敷で過ごした15年の間、のちに腹心となる長野主膳から国学をはじめとするさまざまな禅や学問を学び、そのほかにも茶道や居合術を学び高く評価されていたそうです。
一方で、命名の由来となった歌に表れているように、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、世捨て人のように風流に生きる姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名されていました。
ところが1846年(弘化3年)、兄であり14代藩主である直亮の世子、直元(直中の十一男で直元も直弼の兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定しました。
その6年後の1850年(嘉永3年)11月21日には、直亮の死去を受け家督を継いで15代藩主となります。
直弼は彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれました。また幕末期の江戸幕府では大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行しました。
そして、強権をもって尊皇攘夷派ら国内の反対勢力を粛清して(安政の大獄)、その反動を受けて暗殺されたのはあまりにも有名です(桜田門外の変)。
埋木舎の観光情報
住所 | 滋賀県彦根市尾末町1-11 |
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開館時間 | 9:00~16:30 |
休館日 |
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観覧料(常設展示) |
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