別名 柏木ノ森ノ塁、大塩の城
柏木城は蘆名盛隆が伊達政宗の侵攻にそなえて桧原口の防衛のために築いた城です。政宗は桧原峠を越えて穴沢氏の戸山城と岩山城を攻略しましたが、攻め落とすことはできませんでした。1589年(天正17年)の「摺上原の戦い」では家臣の三瓶大蔵、穴澤俊次が在城していましたが、蘆名軍敗北の知らせを聞くと、大蔵は城に火をかけて退却し、伊達勢が攻め寄せた際には無人でした。城は改修されることなく、そのまま廃城となったようです。現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っており、山の西麓に案内板が設置されています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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