妻籠城は1584年(天正12年)に豊臣秀吉と徳川家康の「小牧・長久手の戦い」の一環としておこなわれた「妻籠城の戦い」の舞台となった城です。この戦いにおいて、豊臣方についた木曽義昌が整備し、家臣の山村良勝が徳川方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らの攻撃から死守しました。その後、1600年(慶長5年)の「関ケ原の戦い」では小笠原氏によって修理され、美濃攻めの拠点として利用されました。徳川秀忠は小諸から下諏訪を経て、妻籠城に滞在していたときに東軍の勝報に接したとされています。現在も城趾には土塁や堀切、帯曲輪などの遺構が残っており、ハイキングコースにもなっています。
妻籠城を訪問した108人の報告によれば、平均見学時間は30分、平均評価は2.86点となっています。
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妻籠宿有料駐車場(500円)
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豊臣秀吉と柴田勝家の雌雄を決した賤ヶ岳の戦い。この戦いで活躍した、賤ヶ岳七本槍のメンバーのその後の人生と、八本目の槍、石田三成との人間模様を描いた物語です。
福島正則、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明、7人のひとりひりの小姓時代の呼び名で物語が構成されてます。
それぞれが違う生い立ちの中、豊臣秀吉の小姓として見出され、天下分けめの関ヶ原の戦いで、東軍についたもの、負けるとわかっていても西軍についたもの、その後の世の中の流れを見据えた石田三成が、それぞれ7人に思いを寄せ、奔走した様が描かれており、石田三成の戦旗に記された意味が読み取れます。
本の帯にある通り、この小説を読み終えた時、その男石田三成を、大好きになりました。
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