墨俣城とあわせて大垣城を攻城してきました。
クルマだと30分もかからない距離にあります。JR大垣駅、大垣市役所のそばにあります(正確にはもともと交通の要所だった城があった場所が発展して駅や市役所になったんですけど)。
お城の裏側はこんなふうに公園(大垣公園)になっています。
あ、市街地の中心ということもあって専用の駐車場がありません。有料駐車場が近くにいくつかあります。
大垣城の歴史
大垣城といえば、関が原の合戦(関ケ原の戦い)の際に石田三成がここを西軍の本拠にしたことで有名ですね。
でもその前に、ちょっとだけ歴史についてのおさらいを。
大垣城はそもそもは500年以上も前、1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって築かれたとされる説と、1535年(天文4年)に宮川安定が大尻に築かれたとされる説があるそうです。竹腰尚綱説のほうは場所も少しちがっていて、揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたとされています。
また当時は牛屋城と呼ばれていたみたいですね。
その後、1560年(永禄3年)に氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備されたとされています。
そのあとは織田家の所領となるわけですが、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となっています。
池田恒興は信長の乳兄弟だけあって、けっこう本拠の岐阜城に近い城を任されてますね。その前には姉川の戦いの恩賞として犬山城主にもなってますし。
もともとは大垣城には天守がなかったそうですね。
天守が築かれたのはずっとあとで、1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛(伊藤盛景)によって造営されました。伊藤祐盛は豊臣秀吉の家臣で、1590年の小田原征伐で功を挙げたことから大垣城を与えられたみたいです。彼はその後、1595年に起きた豊臣秀次事件に連座して処罰されましたが、やがて復帰を許されてます。
天守造営に関しては1588年(天正16年)に一柳直末が築いたという説もあって、築城時期と同様に定かじゃありません。この手の記録が曖昧なお城ってほんとに多いんですよね。
そしていよいよ1600年(慶長5年)の関が原の合戦になるわけですが、当時城主であった伊藤盛宗(伊藤祐盛の子)は西軍に属していたので、石田三成らが入城して大垣城は西軍の根拠地となります。
西軍本隊が野戦のために関ヶ原に移動したあと城内には福原長堯らが守将となって残りますが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城しました。
そのときの逸話が『おあむ物語』として残っています。この『おあむ物語』は岩波文庫からでてるんですけど、もう絶版しててプレミア価格になってます。
江戸時代に入ってからは、徳川家康は大垣城の立地が中山道・北国街道上の要所であったこともあり、また豊臣家との勢力争いはまだつづいていたこともあり、譜代大名として石川康通を城主に任じています。
そして、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主(10万石)となって以降、明治に至るまで大垣城は大垣藩戸田氏の居城となりました。1649年(慶安2年)には城の改修も行ってます。
で、その戸田氏鉄の銅像が公園にありました。
大垣城を理解するには、やっぱりこの城の地理的な条件がポイントになると思います。
いまも東名高速道路や東海道新幹線はここを通っていますし、東国と西国(この場合は畿内)をつなぐ交通の要所だったために、信長や秀吉、家康の戦略拠点になったんでしょうね。
伊勢湾につながる揖斐川、水門川も通っているので経済上の重要拠点でもありました。
なお、上には中山道と書いたんですけど、明治以前の東海道は『東海道五十三次』にも描かれているように鈴鹿峠を越えるルートだったので、中山道で正しいそうです。
余談ですが、中山道は「中仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」ともいうそうです。
つづきます。
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