仕事で近くまでいったので写真だけ撮ったのですが、聚楽第(じゅらくだい)跡の石碑です。
ご存知のとおり、聚楽第は安土桃山時代の末期に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅です。
名前は邸宅っぽいですけど、じっさいは堀に囲まれ、本丸を中心に、北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪を持っていて、立派な平城でした。
ただ、戦闘を目的とした城(城郭)ではなく、天守があったかどうかも定かじゃありません。
(攻城団で城として扱うかどうかはちょっと悩んでいます)
記録によると、聚楽第は1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成しています。
秀吉が関白になったあとに築城――あえて築城といいますが――されています。
じっさいには1586年の9月9日には豊臣の姓をたまわっているので、着工時点ではまだ羽柴秀吉なんですね。あ、ちがいますね。前年に近衛家の猶子となって藤原秀吉を名乗ってたのか。まあ「関白様」って呼ばれてただろうから、苗字はあまり関係ないかもしれませんけどね。
いずれにしても秀吉がかなりイケイケだった時代に建てられました。
Wikipediaによれば
天正15年(1587年)、平安京旧大内裏跡付近に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え聚楽第(じゅらくてい。聚楽亭)と名付ける。これより、公式記録として武家の名字である羽柴から公家の称号として聚楽亭に、豊臣氏嫡流家の呼び名が変わる。
とありますので、この聚楽第の完成をもって公式に豊臣を名乗れるようになったということなんでしょうか。ごめんなさい、このへんよくわかってません。
あとここにある「平安京旧大内裏跡」ですが、冒頭の石碑のそばにも「平安宮大蔵省跡」の石碑がありました。
その後、聚楽第は1591年に羽柴秀次に関白職とともに譲られるわけですが、秀頼が産まれたことにより秀次との関係が悪化して、最終的に秀吉は1595年に秀次を高野山に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌年以降、徹底的に破却したとされています。
自分で建てておいて、10年も経たないうちに取り壊すなんて、めちゃくちゃです。なお、取り壊す際に聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたという説もありますが、真偽は定かじゃないみたいですね。
聚楽第は知名度のわりに、あっという間に取り壊されちゃったので不明な点が多いんですよね。
案内板も情報が少ないためか、おちゃらけた感じになっています。
ここに書いてあるとおり、聚楽第跡の石碑はもう一箇所、「中立売通大宮西北角(本丸東堀があったとされる地点)」にもあるそうですね。
(Wikipediaにはそっちの写真があります)
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