(この記事は2011年1月に自分のブログに書いたものを転載したものです)
伏見城にいってきました。伏見桃山城の通称のほうが有名かもしれませんね。
伏見というと伏見稲荷大社が有名ですが、それよりもう少し南に位置しています。
そもそも伏見という地は大阪と京都の中間に位置していて、豊臣秀吉が秀次に関白の位と聚楽第を譲ったあとの隠居所として屋敷を作ったそうです。どちらにも顔を出しやすいですからね。あとこのあたりは月見の名所でもあったそうです。
最初から城としてつくったのではなかった、というのは知りませんでした。
その後、豊臣秀頼が生まれて、彼に大坂城をあげることにしたので、秀吉自身の居城としてこの伏見屋敷を改修して城を作ったということです。その際に
淀城から天守や、本丸の櫓などを移築したといわれています。
この頃の伏見城を「
指月山伏見城」と呼びます。なお、当時はこのあたりに巨椋池という湖があり、伏見城は琵琶湖岸の長浜城などと同じように湖岸に建てられていたそうです。巨椋池は昭和初期の干拓事業によって農地として埋め立てられているんですけど、土地として窪んでいるためか台風などで水害がよく起こってますね。
でもこの城は1596年の地震で倒壊します。
(なお、この前年に豊臣秀次は自害を命じられています)
すぐに少し離れたところ(今度は高台)に建て直したのが「
木幡山伏見城」です。つまり伏見城ってのはふたつあるわけですね。
ちなみに秀吉が最後亡くなったのもこの新しいほうの伏見城(木幡山伏見城)です。
秀吉が亡くなったあとは徳川家康が少しの間、この伏見城に入るんですけど、すぐに大坂城西の丸に移ります(この時に家康は西の丸に天守を築き、大坂城にはふたつの天守があったという話も)。
で、関ケ原の戦いの前哨戦である「
伏見城の戦い」で木幡山伏見城は焼失します。
「直江状」をきっかけに会津征伐が開始された際に、家康の留守を狙って石田三成が挙兵し、宇喜多秀家を総大将として伏見城を攻めた戦いです。
(ちなみに直江状はウソという説もあります)
留守を守っていたのは鳥居元忠で、こうなることを覚悟した上で家康は任せ、また元忠も喜んで任されたという話は有名です。このときに三成勢が火をつけたために伏見城は全焼しています。
そんなこんなで燃えちゃった伏見城ですが、関ケ原の戦いで勝利した家康は翌年に伏見城と二条城の再建を指示していて、普請奉行には
藤堂高虎が任命されています。
ふたつ目の伏見城は初代と二代目があるわけですね。
その後、家康はこの再建された伏見城で征夷大将軍の宣下を受けたり(秀忠、家光も)、武家諸法度の告知を行ったり、(途中二条城に移る時期もありますが)晩年の駿府城に移るまでは家康の居城として活用されたそうで、歴史的にもかなり意味のある城なんです。
だけど。
いまある伏見城は模擬天守で、すでに閉園している「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されたときにつくられました。
キャッスルランドは経営母体である近鉄のリストラの一環で閉園したんですけど、その際に京都市に無償譲渡されたそうです。まあ解体費もけっこうかかるだろうしね。
ただ、建物は無償譲渡されたんだけど、耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっています。
そこにあるのに入れない、なんとももどかしい城になっています。
たまにテレビの撮影で中に入ってるのを見ので、まったく入れないということではなさそうです。いつか攻城団の取材で入ってみたいものですね。
この模擬天守に歴史的・文化的な価値はないと、堂々と断言しているのはおかしかったです。
残念ながら、当時の遺構はなにも残ってないんですけど、遺石はありました。
城址というより廃墟のような伏見城ですけど、手入れされてないために近づくとサビとかも目立ちますね。
ただ、遠くから見るときれいですし、5重6階の天守は迫力ありますよ。
模擬天守のすぐそばにある伏見桃山城運動公園の駐車場は30分100円なので、一度は見にいっていただきたいなと思います。
周辺マップです。
より大きな地図で 伏見城周辺マップ を表示
サポーター募集
攻城団は無料で利用できますが、その運営にはたくさんのお金がかかります。5年後も10年後もその先も維持するために、このサイトを気に入ってくださった方はぜひご支援ください。何卒よろしくお願いいたします。
サポーター制度のご案内
この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)
新規登録(登録は無料です)
あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。
新規登録(登録は無料です)