大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から刃傷事件による断絶まで家老として大手門内側の一角に屋敷を構えていました。
現在、大石家の屋敷跡は大石神社の境内となっていますが、長屋門は外からも見える位置に残されています。
この長屋門は赤穂城下に残る数少ない江戸時代の建築遺構で、1979年(昭和54年)に解体修理が行なわれています。
大石邸長屋門
この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・八メートル、奥行約四・八メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
安政三年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。
更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三、一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。赤穂義士会
また大石邸長屋門の道向かいには近藤源八宅跡長屋門があります。
赤穂市指定有形文化財 建造物 指定番号三一近藤源八宅跡長屋門
近藤源八正憲(こんどうげんぱちまさのり)は甲州流(こうしゅうりゅう)軍学を修め、千石番頭(ばんがしら)の重職にあった。源八の妻は、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎左衛門正純(さぶろうざえもんまさずみ)も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。
- 所在地
- 赤穂市上仮屋一二四番地
- 所有者
- 赤穂市
- 管理者
- 赤穂市
- 指定年月日
- 平成一〇年四月二七日
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋(げんぱちながや)」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門(ながやもん)の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。この長屋門は、一八世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当時は総長二一間半(約四二・三m)の長大な長屋門であった。
城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石(そせき)や、柱材、梁材(はりざい)、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成一一年三月に解体復原整備が完了した。入り口部分の土間(どま)は、炊事場(すいじば)であったと考えられ、煙出し窓(けむりだしまど)や、天井周囲に残された煤(すす)が当時の生活ぶりを偲ばせている。また、簀子野地天井(すのこのじてんじょう)は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道(あこうきゅうじょうすいどう)の汲み出し枡(くみだします)とともに人気が高い。赤穂市教育委員会