赤穂城
赤穂城

[兵庫県][播磨] 兵庫県赤穂市上仮屋


  • 平均評価:★★★★☆ 3.50(62位)
  • 見学時間:1時間14分(39位)
  • 攻城人数:2664(48位)

二の丸門跡

赤穂城の二の丸門は当時は櫓門があったそうです。
この門周辺の縄張りの一部を軍学者である山鹿素行が変更したことで知られています。
また、江戸末期には国家老の森主税が暗殺された「文久事件」の場所にもなりました。

二の丸門跡
 赤穂城は、正保(しょうほう)2年(1645)に浅野長直(あさのながなお)が常陸国笠間藩(かさまはん)から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安(けいあん)元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
 ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、承応(じょうおう)2年(1653)に変更したと言われる。
 文久(ぶんきゅう)2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税(もりちから)が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち『高野の復讐(こうやのふくしゅう)』の発端となった。
 また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、明治25年(1892)千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として使用され取り除かれた。平成10年3月 赤穂市教育委員会

このふたつの大きな石は門の築石の一部で、小石を持って叩くと「かんかん」という音をたてることから「かんかん石」と呼ばれています。

二之丸門跡
 ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。
 浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者山鹿素行(やまがそこう)が、築城工事中の承応二年(一六五三)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知られている。
 赤穂城二之丸の面積は一万七二五九坪であった。二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。
 また、文久二年(一八六二)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税(ちから)が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(一八七一)二月に和歌山県高野山で起こった「高野(こうや)の仇討ち」の導火線ともなった。
 ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。赤穂義士会

その脇には二の丸の外堀も残っています。

   

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