赤穂城の本丸跡は本丸御殿(表御殿・奥御殿)の間取りが地面に示されています。
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当時の絵図が描かれた案内板も設置されています。
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(説明文)
本丸の面積は約15,114m2あり、その2/3は領主屋敷、番所、倉庫等の建物と天主台(てんしゅだい)、池泉などに占められ、残る1/3はくつろぎ(池泉を発掘調査)と呼ばれる空地になっていた。
当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする表御殿(おもてごてん)、中奥(なかおく)、小部屋を主とする奥御殿(おくごてん)に区分されていた。表御殿は大書院と小書院を組み合わせた形式で、広間(ひろま)は使者の間と組み合わさって控室となり、そのほか勘定所(かんじょうしょ)や上台所(かみだいどころ)が加わり、藩庁(はんちょう)として使われていた。中奥は、藩主の居間と寝室からなり、台所が付属していた。奥御殿は藩主の寝間と5室の部屋(局(つぼね))と台所が設けられ、うち2室は風呂と台所を備えていた。
復元された御殿は、浅野家断絶後入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図(東京大学史料編纂所蔵)をもとに、赤穂城本丸内水筋図(赤穂高等学校蔵)、赤穂城引渡一件文書の播磨国赤穂城内本丸建屋改帳(花岳寺蔵)、発掘調査の成果などを考察して、建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間(いたま)、座敷間(ざしきま)、土間(どま)、敷居(しきい)、廊下(ろうか)、柱、縁(えん)などを表現した。また坪庭跡には木陰をつくるため、中高木を植栽した。平成8年11月 赤穂市教育委員会
(安土城ではないのに)なぜ「天守台」ではなく「天主台」と記されているのかはわかりません。
石組暗渠排水路もこのように再現されています。
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間取りが細かく書かれているので、本丸御殿の広さもすごく実感できます。
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本丸庭園施設案内図
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門(はねばしもん)、厩口門(うまやぐちもん)の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓門のうち東北角櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形(よこやますがた)として配されていた。平成10年3月 赤穂市教育委員会