二の丸門跡の脇に軍学者である山鹿素行の銅像が建てられています。
山鹿素行は江戸時代前期における軍学者であり儒学者でもあります。
山鹿流兵法および古学派の祖として知られ、浅野長直に仕えた素行は藩士たちに兵法を指南しました。
自ら林羅山のもとで朱子学を学んだものの、のちに朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究するようになりました。
朱子学を批判したことから赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助(大石良雄)も門弟のひとりでした。
案内板の内容を紹介します。
山鹿素行先生銅像
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(一六二二〜一六八五(は、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口(こぐち)の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
その後、寛文五年(一六六五)に「聖教要録(せいきょうようろく)」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年(一六七五)まで赤穂に配流(はいる)され、二の丸内の家老大石頼母助(たのものすけ)邸の一隅に謫居(たっきょ)した。
配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(ししょくとうたいぜん)」「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」「武家事紀(ぶけじき)」「謫居童問(たっきょどうもん)」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
大正一四年(一九二五)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。赤穂義士会
ちなみに「謫居」とは「罰せられ遠方に配流されること」を意味します。
蟄居や閉門と同様に江戸時代における処罰のひとつですね。