富田松山城は三石城主・浦上村宗が備中の松田氏に備えて築いた支城と考えられています。村宗の死後、長男で跡を継いだ浦上政宗と、弟である宗景と国秀が不和になると、宗景は天神山城を築き、また国秀はこの城を改築して居城として、政宗が居城とした室津城に対抗しました。1532年(享禄5年)に政宗は三石城を攻略し、さらにこの城に攻め寄せたため国秀は降伏しています。その後は城番が置かれていましたが、政宗の勢力が衰退すると宗景方の城となり、さらに宇喜多直家の支配下となりました。現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができます。
富田松山城を攻城した団員が残してくださったコメント(クチコミ)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
富田松山城へのアクセス情報 情報の追加や修正
品川リフラクトリーズ大渕球場駐車場
じっさいに訪問した方の正確な情報をお待ちしています。 フィードバック
富田松山城とあわせて訪問するのにオススメのお城です。
富田松山城の周辺にあるホテルや旅館を表示しています。
あなたが泊まったホテルのレビューをお願いします!(レビューはホテルの詳細ページから投稿できます)
まだトピックがありません(情報募集中)
まだ本城登録している団員がいません
三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する