萩城の天守は5重5階の複合式望楼型天守でした。
天守の北側には付櫓を接続した複合式の縄張りと2重2階の入母屋造の基部に3重3階の望楼を載せた構造で、高さは約21mありました。これは姫路城の31.5mや松本城の25mと比べると小規模ですが、彦根城の15.5mや犬山城の18mより大きな天守でした。
外壁は白漆喰の総塗籠で、窓は銅板を貼った突き上げ戸を備えています。
1768年(明和5年)の修理では赤瓦に葺きかえられています。また、高さ6間、約11mの天守台は、非常に勾配の緩やかな裾から上にいくに従って急勾配に立ち上がっていますが、これは、城の築かれた土地である三角州の地盤の強度を補うためで、底面を広げることで荷重を分散させる工夫です。
なお、指月山山麓の本丸南西部に据えられた天守は、城外(城下町)からは見えなかったため、安土桃山時代以降の多くの近代城郭が持っていたとされる城主(藩主)の支配力を誇示するという役割は期待できなかったと思われます。
1874年(明治7年)に解体されたため、現在は天守台の石垣だけが残っています。
天守台の下には案内板が建てられています。
萩城天守閣
萩城は、関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長二州・三十六万石の居城として、慶長9年(1604年)工を起し同13年(1608年)完工した。桃山初期の形式を示す。白亜五層の天守閣は高さ8間(14.4米)初層は東西11間(19.8米)南北9間(16.2米)、最上層は東西3間半(6.3米)南北3間(5.4米)である。初層は、石垣全面にわたって半間を張り出し傍射装置になっていた。明治7年(1874年)解体まで270年間毛利氏が13代にわたり萩城の象徴として偉容を誇っていた。
この写真は明治初期萩の小野為八が撮影したものといわれる。
また、JR山陰本線・東萩駅前には萩城天守の1/6サイズの復元模型が展示されています。