菅生神社は岡崎市最古の神社です。
その起源は聖武天皇の時代にまでさかのぼりますが、松平家との関わりが深い神社として知られています。
徳川家康も菅生神社に対する崇敬は厚く、25歳の厄落とし祈願はこの神社で行ったと記録に残っています。
(ただしこの当時の家康の本拠地は浜松城だったため真偽は不明)
菅生開運稲荷大明神由来
今より凡そ千二百五十六年前第四十五代聖武天皇神亀二年山城国紀侍郡宇賀三社霊神(伏見稲荷大社)を神託により勧請、菅生稲荷大明神(祭神豊受姫神)と申します。菅生神社の本殿に鎮座しておられ後に三河松平郷に初代松平親氏公勃興になり、明徳二年十一月十五日社殿を再建三代信光公の息松平七郎左衛門光義子孫代々神主となられ奉仕されました。
四代親忠公も亦御尊敬深く子孫繁栄のために本殿を造営なされました。
松平家代々開運祈願所として尊崇するところとなりました。之により松平清康公(家康公の祖父)岡崎城入城の折、大永三年十二月十三日御参籠ありて御神託を受けて岡崎城内に菅生稲荷大明神の分霊を祀られましてこれを称して開運稲荷大明神と申します。
けれども天正十九年岡崎城代田中兵部大輔吉政城地拡張するため神殿を取壊はされまして菅生神社の本殿にお迎え致しました。
四百年の後、今菅生神社境内に社が建立され開運稲荷大明神は新しい社に祀られております。
昭和五十七年十一月吉日 菅生神社
宮司 齋藤光久
岡崎城主であった本多忠利が菅生神社本殿修復の際に寄進したものとされる明神型石鳥居は岡崎市の指定文化財に選ばれています。
(神社の裏手にあります)
岡崎市指定文化財
菅生神社建造物 明神型石鳥居 一基
寛永十五年(一六三八)岡崎城主本多伊勢守忠利が菅生神社本殿を修復した際に寄進したもので、以後歴代岡崎城主の崇敬厚く幕末にいたる。明治三十四年(一九〇一)社地の遷座(せんざ)にともない、石鳥居も移転された。
総高二七一・〇cm、柱間一八一・五cm、柱径二二・五cmで、材質は花崗岩(青石)である。笠木は一本通し、柱には左右それぞれに刻銘を入れる。台石は自然石の周りを残し、上部を四角に造り出している。
なお、柱表面の一部が剥離しているが、銘文は明確に読むことができる。
(左柱)「奉造立牛頭天王石之鳥居/寛永十五戊寅年仲冬吉日良辰仰冀」
(右柱)「武明長興此柱礎斉堅固矣/従五位下本多伊勢守藤原忠利敬白」
平成二年三月二十二日指定 岡崎市教育委員会
菅生神社の観光情報
住所 | 愛知県岡崎市康生町630-1 |
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御祭神 | 天照皇大神、豊受姫命、須佐之男命、合殿・菅原道真公、合殿・徳川家康公 |
創建 | 西暦110年10月 |
例祭 | 7月20日 |
月次祭 | 毎月15日 |