岡崎城の大手門は1993年(平成5年)に再建されました。
当時の大手門の位置とは異なりますが、高さ11m、幅16.4mとかなり立派な櫓門です。
石垣には地元産のみがげ石を使用し、入母屋造りの屋根には江戸物本瓦が葺かれています。
大手門の前にある石碑です。
岡崎城大手門
この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として建設したものです。
本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約二〇〇メートル)にありました。
江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間、梁行二間四尺」でした。
内側から見た大手門です。
大手門をくぐったところに岡崎城跡の案内板があります。
岡崎市指定文化財史跡 岡崎城跡
享徳元年(一四五二)または康正元年(一四五五)、明大寺に居館を構えていた西郷弾正左衛門頼嗣(青海入道)が菅生川の北岸に砦となる城を築いたのが岡崎城の始まりである。その後、安祥城主から岡崎城主となった松平清康は享禄四年(一五三一)にこの地を本拠とし、本格的な岡崎城を構えた。
天文十一年(一五四二)十二月二十六日に城中で徳川家康が誕生しており、城内にはえな塚、産湯の井が残る。
天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉の武将であった田中吉政が入城。城郭を拡張して東海道を城下に引き入れ、城の東・北・西に惣構えの堀を巡らし、近世の岡崎城と城下町の基礎づくりを行った。
江戸時代は石高五万石の譜代大名(前本多家四代―水野家七代―松平家一代―後本多家六代)の居城となり、その間たびたび修復が行われた。
明治維新後、天守閣以下の建物は明治六年(一八七三)に取り壊され、本丸・二の丸など主要部分は明治八年に岡崎公園となった。現在の天守閣は昭和三四年の再建である。
昭和三十七年六月十五日指定岡崎市教育委員会