岡崎城
岡崎城

[愛知県][三河] 愛知県岡崎市康生町561


  • 平均評価:★★★★☆ 3.64(47位)
  • 見学時間:1時間21分(32位)
  • 攻城人数:3930(11位)

岡崎城の歴代城主

岡崎城は西郷頼嗣(稠頼)が城を築いて以来、26人の城主がいました。
なかでも岡崎城で生まれた徳川家康は「桶狭間の戦い」後に今川家から独立して以降、浜松に拠点を移すまでの10年間をこの岡崎城で過ごしています。松平元康から徳川家康と名前をあらためたのも岡崎時代のことです。

徳川家康は6代目の岡崎城主

 

また、徳川家康の関東移封後、岡崎城主となった田中吉政は岡崎城を大改修して、天守を築き、さらに城下町を取り囲む惣構えの堀(田中掘)を造成しました。

江戸時代には譜代大名が代々城主を勤め、将軍徳川吉宗の「享保の改革」を主導した水野忠之、幕末の動乱期に老中首座を務めた本多忠民など、幕政の中枢を支えた人材を輩出しています。

破却される前の岡崎城天守

 

岡崎城の歴代城主

歴代 西暦(和暦) 城主 メモ
1   西郷頼嗣(稠頼) 生没年不詳。15世紀半ばに岡崎城をはじめて築いたとされる。
2   松平光重 松平信光の5男で、西郷頼嗣の跡をつぎ岡崎松平氏の初代となった。
3   松平信貞(西郷信貞) 松平光重を祖とする岡崎松平氏の3代目。光重の子、または、頼嗣の子ともいわれる。岡崎松平氏は西郷氏を継承したので西郷氏も名乗る。
4 1524年(大永4年) 松平清康 1524年(大永4年)、岡崎松平家の山中城を攻め落とし、 岡崎松平3代信貞の婿となり居城を安城から岡崎に移した。三河一国をほぼ平定し戦国大名にまでなったが、1535年(天文4年) に尾張守山の地で家臣によって殺され(森山崩れ)、松平氏の三河支配は瓦解した。享年25歳。
5 1535年(天文4年) 松平広忠 清康が殺された時、10歳で家督を継ぐ。織田信秀の攻撃をよく防いだが、松平家の内紛により岡崎城から追われ、伊勢・遠江を流浪した。1537年(天文6年)に今川義元の援助で岡崎城に復帰するも、織田方の刺客によって岡崎城内で殺された。享年24歳。
6 1560年(永禄3年) 徳川家康 幼少時代は今川家の人質となったが、1560年(永禄3年)に今川義元が桶狭間合戦でなくなると、岡崎城に復帰。1563年(永禄6年)7月、元康から家康に改名、さらに1566年(永禄9年)には松平から徳川に改姓した。1570年(元亀元年)、浜松に居城を移し、岡崎城には嫡子信康を城主として置いた。
7 1570年(元亀元年) 松平信康 1570年(元亀元年)に家康が浜松城に居城を移すと岡崎城主となったが、織田信長から武田氏に内通したとの嫌疑を受け、1579年(天正7年)に遠江二俣城で切腹した。享年21歳。
8 1590年(天正18年) 田中吉政 徳川家康の関東移封後、岡崎城主(5万石)となり、その後加増されて10万石となり西尾城主も兼帯した。岡崎城の造営、田中掘と呼ばれる惣堀の構築、板屋町・田町など城下町造成を行い、近世岡崎城の原型をつくった。「関ケ原の戦い」では石田三成を捕縛する功をあげ、1600年(慶長5年)筑後32万5千石に加増され、柳川城に移った。
9 1601年(慶長6年) 本多康重 1600年(慶長5年)、関ケ原合戦に参陣、翌年2月に3万石の加増を受けて岡崎に転封。
10 1611年(慶長16年) 本多康紀 1579年(天正7年)に本多康重の嫡子として田原で生まれた。1617年(元和3年)、岡崎城天守閣を再建。
11 1623年(元和9年) 本多忠利 1600年(慶長5年)に本多康紀の嫡子として生まれた。1634年(寛永11年)、3代将軍・徳川家光の上洛の際に岡崎城にて饗応し、帰途に5000石の加増を受ける。1831年(天保2年)1月、遠江横須賀に転封を命じられたが、2月10日に病死したために転封を果たせなかった。
12 1645年(正保2年) 本多利長 1635年(寛永12年)、本多忠利の6男として生まれた。家督を相続して1ヶ月後後に遠江横須賀5万石に転封を命じられた。
13 1645年(正保2年) 水野忠善 1612年(慶長17年)に水野忠元の嫡子として江戸藩邸で生まれる。三河吉田から1645年(正保2年)に岡崎5万石に入封となり、瀧山東照宮に石鳥居・石灯籠を献じた。
14 1676年(延宝4年) 水野忠春 1641年(寛永18年)に忠善の嫡子として江戸で生まれる。1681年(天和元年)に奏者番兼寺社奉行を命じられ、1684年(貞享元年)には大坂仮城代役を勤めた。
15 1692年(元禄5年) 水野忠盈 1662年(寛文2年)、忠春の2男として江戸で生まれる。1697年(元禄10年)に三河国絵図作成を幕府より命じられる。
16 1699年(元禄12年) 水野忠之 1669年(寛文9年)に忠春の4男として生まれた。1701年(元禄14年)2月、三河国絵図ならびに郷村帳の清書完成、翌年には参州道法御用を命じられ7月に清書完成。宝永2年(1705)奏者番就任。1711年(正徳元年)に若年寄に昇進、1714年(正徳4年)には京都所司代に昇進した。1717年(享保2年)に老中に昇進、1722年(享保7年)には勝手掛老中に抜擢され、「享保の改革」の中心人物として活躍した。
17 1730年(享保15年) 水野忠輝 1691年(元禄4年)に忠之の2男として生まれた。
18 1737年(元文2年) 水野忠辰 1691年(元禄4年)に忠之の2男として生まれた。
19 1752年(宝暦2年) 水野忠任 1736年(元文元年)、旗本水野平十郎守満の2男として生まれた。1762年(宝暦12年)肥前唐津6万石に転封され、岡崎を去る。
20 1762年(宝暦12年) 松平康福 1719年(享保4年)、石見浜田藩主松平康豊の長男として生まれる。1762年(宝暦12年)、下総古河から岡崎に転封。同年西の丸老中に昇進し、翌年には本丸の老中職も兼務。1764年(明和元年)、正式に本丸老中に就任。1769年(明和6年)に旧領浜田へ転封。
21 1769年(明和6年) 本多忠粛 1759年(宝暦9年)に本多忠敞の2男として生まれる。1769年(明和6年)、岡崎に転封となり、翌年岡崎城に入城。 1777年(安永6年)に19歳で病没。
22 1777年(安永6年) 本多忠典 1764年(明和元年)に本多忠盈の3男として浜田で生まれる。
23 1790年(寛政2年) 本多忠顕 1776年(安永5年)、紀州徳川分家の伊予西条藩松平頼謙の2男として江戸に生まれる。寛政年間には藩財政の建直しを図ったが、1821年(文政4年)に病気により隠居。
24 1821年(文政4年) 本多忠考 1805年(文化2年)に本多忠顕の4男として生まれる。1826年(文政9年)には幕府より3000両を拝借して岡崎城を修復。
25 1835年(天保6年) 本多忠民 1817年(文化14年)、讃岐藩主松平頼儀の子として生まれる。1843年(天保14年)、奏者番就任。1846年(弘化3年)、寺社奉行就任。1857年(安政4年)、京都所司代を命ぜられ、侍従兼美濃守に任ぜられる。1860年(万延元年)から1863年(文久3年)まで幕府老中就任。1864年(元治元年)、第一次長州出兵により京都に赴く。同年から1865年(慶応元年)まで再度老中に就任し、老中首座を務める。1865年(慶応元年)、第二次長州出兵で江戸城留守警衛を命ぜられる。1869年(明治2年)病気のため隠居し、養子忠直に跡を継がせる。
26 1869年(明治2年) 本多忠直 1844年(弘化元年)、信濃小諸の牧野遠江守康哉の第2子として生まれる。1869年(明治2年)2月、忠民隠居にともない家督を継ぎ岡崎藩主となり、6月、版籍奉還により岡崎藩知事となる。同年藩校允文館、允武館建設。1871年(明治4年)、廃藩置県により藩知事を罷免され、東京本郷の森川邸に移る。1872年(明治5年)~1878年(明治11年)までヨーロッパに留学。1880年(明治13年)死去。

参考文献「岡崎城―城と城主の歴史―」

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

岡崎城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

全国 御城印 大図鑑

マイナーな城の御城印も多く紹介されており、情報量がすごいです。この本だけでも御城印を集めた気分を味わえてしまいます。
御城印のデザインの由来など解説も充実しているので、御城印を集めていない人も楽しめます。
城の写真には提供した団員さんの名前も記載され、攻城団のみんなで作りあげた感が詰まっていて嬉しくなりました。

伝もものふ山田(ヤマー)さん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る