掛川城
掛川城

[静岡県][遠江] 静岡県掛川市掛川1138-24


  • 平均評価:★★★★☆ 3.64(44位)
  • 見学時間:1時間12分(43位)
  • 攻城人数:3771(18位)

掛川城の歴史

掛川城は文明年間(1469年~1487年)に、駿河の守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じて築城したと伝えられています。
当時の城は、掛川城から東に500mほどのところにある天王山にあり、現在では掛川古城と呼ばれています。

ちなみに築城は1497年(明応6年)から1501年(文亀元年)の間との説もあります。
義忠が亡くなったのが1476年(文明8年)であることから考えると、文明年間説のほうが正しく思えますが、一方で、当時の掛川一帯は原氏の支配下に在りましたので、原氏の居城である殿谷城を今川氏が落城させた1497年(明応6年)以降の築城という説も信憑性があります。
(その場合は義忠の嫡男である「今川氏親の命により築城」ということになります)

以後、朝比奈氏が城代をつとめましたが、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭になったこともあり、1512年(永正9年)から1513年(永正10年)頃に現在の位置(竜頭山)にあらたに掛川城が築かれました。

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で義忠の孫にあたる今川義元織田信長に討たれると、今川氏は衰退し、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の両大名から挟み撃ちにあい、当主の今川氏真は本拠地である駿府館を捨て、朝比奈泰朝(泰煕の孫)の掛川城に逃げ延びました。

その後、掛川城は徳川勢によって攻め取られ、城代として家康の重臣、石川家成康通親子が入りました。代々、石川氏が城代をつとめ、武田氏の遠江侵攻に対する防御の拠点となりましたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入っています。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、天守を築くなど近世城郭としての体裁を整えました。現在見られる城郭構造の基本的な部分はこのときのものです。

1600年(慶長5年)の「関ケ原の戦い」の後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転したため、江戸時代には徳川家康の異父弟の松平定勝など多くの譜代大名が城主をつとめています。

江戸時代後期には太田道灌の子孫である太田氏の居城として栄えました。
「東海の名城」とも謳われた掛川城ですが、幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、天守を含む大半の建物が損壊し、政務所である二ノ丸御殿や、太鼓櫓、蕗の門などの一部をのぞき、再建されることなく明治維新を迎え、1869年(明治2年)に廃城となりました。

1994年(平成6年)には天守が、1993年(平成5年)には大手門が再建されています。

再建された大手門と天守

掛川城の歴史・沿革

西暦(和暦)出来事
文明年間(1469年~1487年)朝比奈泰煕、今川義忠の命により天王山に掛川古城を築城
1513年(永正10年)朝比奈泰煕・泰能二代によって龍頭山に掛川城を築城
1522年(大永2年)天守丸に霧吹き井戸を掘る
1568年(永禄11年)徳川家康、掛川城を包囲。天王山を占拠し攻略開始
1569年(永禄12年)今川氏真・朝比奈泰朝、家康の講和条件を受諾。小田原城の北条氏康を頼り掛川城を退去。家康の命により石川日向守家成が掛川城主となる
1590年(天正18年)石川康通、上総鳴渡に移る。山内対馬守一豊、近江長浜より掛川城主として入城
1596年(慶長元年)山内一豊によって天守閣完成。城郭および城下町の整備を開始
1600年(慶長5年)山内一豊、関ヶ原の戦いに東軍(徳川)に付き参戦
1601年(慶長6年)山内一豊、関ヶ原の戦いの戦功により土佐高知へ移る。松平隠岐守定勝(家康の異父弟)、下総小南より掛川城に入城
1603年(慶長8年)松平定勝の嫡男・松平近江守定吉、19歳で自害
1607年(慶長12年)松平定勝、伏見城代となる。定勝の子・松平河内守定行が後を継ぎ城主となる
1617年(元和3年)松平定行、伊勢桑名に転封。安藤帯刀直次、遠江横須賀より掛川城に入城
1619年(元和5年)安藤直次、紀州田辺へ移封(徳川頼宣付家老)。松平越中守定綱、掛川城に入城
1623年(元和9年)松平定綱、地震大雨で破損した天守閣を修復する。中野七蔵重吉、掛川城を預かる
1625年(寛永2年)朝倉筑後守宣正、徳川忠長の付家老として掛川城を預かる
1633年(寛永10年)青山大蔵少輔幸成、下総姉崎より掛川城に入る
1635年(寛永12年)青山幸成、摂津尼ケ崎に移封。松平大膳亮忠重、駿河田中より掛川城に入城
1639年(寛永16年)松平忠重没す。嫡子・松平忠倶は幼少のため即日、信濃飯山へ移封。本多能登守忠義、播磨より掛川城へ入城
1644年(正保元年)本多忠義、越後村上に転封。松平伊賀守忠晴、駿河田中より掛川城に入城
1648年(慶安元年)松平忠晴、丹羽亀山に移封。北条出羽守氏重、駿河田中より掛川城に入城
1658年(万治元年)北条氏重没すも、嫡子なくお家断絶。宮崎三左エ門、本多越前守利長が掛川城を預かる
1659年(万治2年)井伊兵部少輔直好、三河西尾より掛川城に入城
1672年(寛文12年)井伊直好没す。井伊伯耆守直武、遺領を継ぐ
1690年(元禄3年)掛川城下町大火災
1694年(元禄7年)井伊直武没す。井伊兵部少輔直朝、遺領を継ぐ
1705年(宝永2年)井伊直朝、発狂し領地除領。養子の井伊直矩は即日越後与板へ転封。宮崎三左エ門、松平清衛門が掛川城を預かる
1706年(宝永3年)松平遠江守忠喬、信州飯山より掛川城に入城
1707年(宝永4年)大地震により掛川城下町被害を被る
1711年(正徳元年)松平忠喬、摂津尼ヶ崎に転封される。小笠原壱岐守長煕、掛川城主となる
1739年(天文4年)小笠原長煕、辞職。小笠原山城守長庸、城主となる
1744年(延享元年)小笠原長庸没す。小笠原能登守長恭が遺領を継ぐ
1746年(延享3年)小笠原長恭、幼少及び領政不備により陸奥棚倉へ転封される。太田摂津守資俊、上野館林より掛川城に入城
1763年(宝暦13年)太田資俊没す。太田備中守資愛、遺領を継ぐ
1805年(文化2年)太田資愛没す。太田摂津守資順、遺領を継ぐ
1808年(文化5年)太田資順没す。太田備後守資言、遺領を継ぐ
1810年(文化7年)太田資言没す。太田備中守資始、遺領を継ぐ
1841年(天保12年)太田資始、辞職。太田摂津守資功が相続
1854年(嘉永7年)大地震のため天守閣・各城門が崩壊
1862年(文久2年)太田資功没す。太田備中守資美が相続
1869年(明治2年)太田資美、上総国芝山に転封。徳川家達入国
1994年(平成6年)4月天守が再建された。日本初の木造復元天守である
1995年(平成7年)大手門が再建された。大手門番所も移築される
2006年(平成18年)4月6日日本100名城(42番)に選定される
   

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今日のレビュー

武者たちの黄昏

僕が地方出版本に目覚めた本です。戦国越後の通史的な本です。事件の現場に著者が訪れて、事件の概要と著者が受けた印象を淡々と記されています。
この本がきっかけで新潟めぐりが始まり、果ては関東にまで赴くことになろうとは、当時の僕は知る由もなかった。

まーPさん)

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