掛川城の天守の歴史と、現在建てられている復元天守について紹介します。
掛川城の天守の歴史
掛川城に天守を築いたのは、1590年(天正18年)に徳川家康が関東に移封したことに伴って入城した山内一豊です。
一豊はこのときに3重4階の層塔型天守を築きましたが、この天守は1604年(慶長9年)に起きた地震で大破しています。
「関ケ原の戦い」の後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転したため、その後は譜代大名を中心に城主が頻繁に交代していますが、天守が再建されたのは1621年(元和7年)のことで、松平定綱の時代です。
以降、何度か城の修築も行われたそうですが、1854年(嘉永7年)に起きた、いわゆる「安政の大地震(安政東海地震)」によって天守を含む大半の建物が倒壊しています。
それからは天守は再建されませんでしたが、1994年(平成6年)4月に日本初の木造復元天守として再建されています。
この再建では市民や地元企業などから9億6000万円の募金が集まったそうです(うち、5億円は白木ハナヱさん個人による)。
建設には約11億円かかっています。
なお、いちおう多くの書籍などでは「復元天守」として分類されていますが、その外観は1621年(元和7年)に再建された天守ではなく、山内一豊が築いた初代天守を想定しており、しかも絵図などの資料が残っていないため、一豊が掛川城の天守と意匠をあわせて建てさせたとされる高知城の天守を参考にしています。
そのため「復興天守」と紹介されることもあります。
現在の掛川城天守
天守までは本丸跡から登城路の石段をのぼっていきます。
天守曲輪(天守丸)に入るための冠木門があります。
当時は櫓門があったそうです。
天守下門跡(てんしゅしたもんあと)
天守閣へ入るための二層の櫓門がありました。調査では、櫓をのせていた基壇の石垣が見つかりました。TENSYUSHITAMON ATO
天守曲輪から見上げた天守です。
井戸があります。
天守丸(てんしゅまる)
天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。一豊によって城域(じょういき)が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。TENSYUMARU霧吹き井戸(きりふきいど)
永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。KIRIFUKIIDO霧吹き井戸について
- 1522年(490年前)に井戸が掘られました。(約1年かけて掘られている)
- 日本第3位の深さといわれます。(深さは45mあります)
- 今川氏真が立てこもる掛川城を徳川家康が攻めた時、井戸から立ち込めた霧が城を包み家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
※別名 雲霧城とも言われます。- この井戸は昭和35年位まで使われていた。
(戦没者慰霊塔があって、それを護る庵守様の庵が天守丸にあり、その方が使っていた)- 室町時代の有名な連歌師宗長(今川の家臣 1448〜1532)が掛川城初期のを書き留めてあった。
1番 丸亀城(香川) ...65m
2番 福知山城(京都) ...50m
3番 掛川城(霧吹き井戸)...45m
4番 松山城(愛媛) ...42m
掛川城は別名「雲霧城」とも呼ばれていますが、その名前はこの「霧吹き井戸」の伝説がもとになっているそうです。
入口の脇に天守についての案内板があります。
掛川城天守閣(かけがわじょうてんしゅかく)
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
天守閣は、外観三層(がいかんさんそう)、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。
中に入ります。
1階は甲冑などが展示されています。
2階には鯱の複製が展示されています。
3階からは城下町を一望できます。
天気が良く、空気がすんでいると富士山が見えるそうです。
天井は格天井でした。
掛川城天守閣の構造
- 天守
- 瓦葺、3層、内部4階(地上2階、塔屋2階)
外部白漆喰塗籠、4階出入口引分け戸と廻縁・高欄は黒塗。
内部壁嵌板、4階は貼付壁、格天井
棟高石垣上端より53.4尺(16.18m) - 付櫓
- 瓦葺、1層1階、外部白漆喰塗籠、内部壁嵌板、一部漆喰真壁
棟高石垣上端より18.75尺(5.68m) - 総床面積
- 92.25坪(304.96m2)