別名 大岡城、三河山崎城
山崎城は松平清康の弟である松平信孝が城主をつとめた城です。信孝は清康が「守山崩れ」で暗殺されると、幼少で家督を継いだ広忠の後見人をつとめていましたが、次第に専横しはじめたために所領を没収され、それを恨んで織田信秀に仕えました。信秀は広忠の居城である岡崎城に対抗するためにこの城を築いて守らせました。しかし信孝は1548年(天文17年)に単独で岡崎城を攻めて討死すると、翌年には今川・松平連合軍に攻められ落城、そのまま廃城になりました。「小牧・長久手の戦い」の際に徳川家康によって改修、利用されたという説もあります。現在城址には山崎神明社があり、大きな空掘が残っています。
山崎城を訪問した138人の報告によれば、平均見学時間は15分、平均評価は2.50点となっています。
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260年近く泰平な世の中であった江戸時代、徳川幕府に付いて知りたくこの本を手にした。
徳川政府(徳川幕府の事)とか、禁裏(朝廷の事)とか、聞き慣れない言葉が所々に出てきて最初は違和感を感じ、アメリカの研究者が書かれたものを翻訳されたものなので仕方がないと思っていましたが、最後まで読み終えると、「そうだったのか」と目から鱗が落ちた気持ちになります。
まとめとしては、徳川政府が把握する「表」の歴史と各大名が把握している「内証」の歴史は違う事をお互いに容認することで争い事のない泰平な世が260年近く続ける事が出来たようです。しかし、諸外国の進出により、この状況を理解させられなかったことから幕府の権威が失墜し、明治維新に繋がったということですが、それに繋がる研究事例がよくまとめられていました。
以上の様に、何故江戸時代が260年近くに渡り泰平な世だったかを理解するのにベストな一冊かと思います。
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