板橋城は豊島氏の一族、板橋氏の居城として知られています。板橋氏は豊島宗家が太田道灌に滅ぼされたのちは北条氏に従い、赤塚城の千葉氏に属していたとみられています。その後、1590年(天正18年)に北条氏が滅亡すると赤塚城とともに廃城になったと考えられます。長らく所在地不明の城でしたが、1972年(昭和47年)に歴史研究家が子孫を探し出し、現在の東京都板橋区東山町にある板橋区立上板橋小学校と小高いその一帯が城域であることが判明しました。現在は小学校内に城址碑が建てられています。
板橋城を訪問した134人の報告によれば、平均見学時間は16分、平均評価は1.72点となっています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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