水城は663年(天智2年)の「白村江の戦い」に大敗した大和朝廷が、大宰府防衛のためにその翌年に築いた防御施設です。『日本書紀』に記載された、記録に残る日本最初の城でもあります。正確には福岡平野からの外敵を防ぐために築かれた土塁(大堤)で、その規模は全長1.2km、幅77m、高さ9mにわたります。ただしこのときは唐・新羅軍の侵攻はなく使用されませんでしたが、奈良時代中期の765年(天平神護元年)に対新羅外交の緊張から改修がおこなわれています。現在、跡地は国道3号線、九州自動車道、西鉄天神大牟田線、JR鹿児島線などにより分断されていますが、東門跡近くに石碑と案内板が建てられています。
水城を訪問した862人の報告によれば、平均見学時間は43分、平均評価は3.14点となっています。
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豊臣秀吉と柴田勝家の雌雄を決した賤ヶ岳の戦い。この戦いで活躍した、賤ヶ岳七本槍のメンバーのその後の人生と、八本目の槍、石田三成との人間模様を描いた物語です。
福島正則、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明、7人のひとりひりの小姓時代の呼び名で物語が構成されてます。
それぞれが違う生い立ちの中、豊臣秀吉の小姓として見出され、天下分けめの関ヶ原の戦いで、東軍についたもの、負けるとわかっていても西軍についたもの、その後の世の中の流れを見据えた石田三成が、それぞれ7人に思いを寄せ、奔走した様が描かれており、石田三成の戦旗に記された意味が読み取れます。
本の帯にある通り、この小説を読み終えた時、その男石田三成を、大好きになりました。
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