「吉田東洋先生記念之地」の石碑が建つこの場所は吉田東洋が暗殺された場所です。
吉田東洋は幕末期の土佐藩の参政(大名家の家老)です。15代藩主・山内容堂の信任を得て藩政改革を強力に主導しました。一時隠居となった際、高知郊外に私塾を開きました。
そのときの塾生には、のちの土佐藩を率いることになる後藤象二郎や乾退助(のちの板垣退助)、福岡孝弟、岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)らの若手藩士がいました。
藩政に復帰した後は富国強兵を目的とした改革をさらに遂行しますが、保守派や尊王攘夷派の土佐勤王党と政治的対立が生じ、1862年(文久2年)武市半平太の指令をうけた土佐勤王党によって暗殺されました。
暗殺された日は高知城の二の丸で藩主・山内豊範(とよのり)に『日本外史』、『信長公記』の本能寺の変を講義しており、最終講義だったため酒肴にあずかり、亥の刻(22時頃)雨の中の帰り道でした。
吉田東洋〔1816−1862〕
本名正秋通称元吉 15代藩主山内豊信(容堂)に信任され 安政改革を推進文武館を建設 「海南政典」を編さんしたが公武合体策を堅持したため 武市瑞山の率いる土佐勤王党の刺客により 文久2年4月8日この地に暗殺された
住所 | 高知県高知市追手筋2-1-12 |
---|---|
アクセス |
|