攻城団ブログ

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【おんな城主】井伊直虎ってどんな人?

大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎の生涯をざっくり整理しました。ドラマの予習にぜひ読んでみてください。

2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎とはどんな人物なのでしょうか。
これから一年、ドラマを楽しむためにおおざっぱに予習しておきませんか。

そもそも井伊直虎はいつの時代の人なの?

まず直虎と同年代の戦国武将は誰なのかというところからはじめましょう。
残念ながら直虎の正確な生まれ年はわかっていません。
いちおう1534年(天文3年)や1536年(天文5年)あたりだといわれていますが、定かではありません。生誕地も不明です。これは直虎にかぎった話ではなく、この時代はよほど有名な家に生まれていないと記録が残っていません(秀吉のように武家の出身でない場合も同様です)。

さて、1535年(天文4年)前後に生まれた人物でもっとも有名なのは織田信長です。
信長は1534年(天文3年)生まれです。誕生日については諸説あるんですけど、生まれ年は確定しています。
ちなみに直虎の没年は1582年(天正10年)なのですが、これは信長と同じです。信長が「本能寺の変」で自害したのが6月2日、直虎が亡くなったのはその2カ月後の8月26日です(いずれも旧暦の日付)。

おそらく大河ドラマでも信長はちょこちょこと登場するんじゃないかと思いますが、だいたい信長と同年代なんだということを頭に入れておくといいです。
なお信長はたんに同年代というだけでなく、直虎の人生にもおおきな影響を与えるのですが、それはまた後述します。

井伊直虎のざっくりした生涯(ドラマのあらすじ)

今回の大河ドラマ「おんな城主 直虎」では井伊直虎の生涯が描かれるわけですが、彼女は井伊直盛の娘として生まれます。
直盛は井伊氏の当主でしたが、男子がいなかったため、自分の従兄弟にあたる井伊直親(幼名・亀之丞)を娘と結婚させて婿養子に迎える予定でした。直虎にとって直親は「いとこおじ」の関係ですね。家を守るために一族で後継者を迎えるというのはごくふつうのことでした。
(「直虎は」と書いてますが、もちろんこの時点では幼名を名乗っていました)

許嫁・亀之丞の逃亡

ところが1542年(天文11年)に祖父・直宗が戦死し、さらに1544年(天文13年)には直親の父である直満直義とともに今川義元によって殺されます。これは井伊氏の家老であった小野政直による讒言(おとしいれるために悪口をいうこと)だったという説もありますし、本家をのっとろうとしていた直満を殺害して政直は井伊の家を守ろうとしていたとする説もあります。
父を殺された直親は、自らの命も危険にさらされていたので信濃へ逃げました。

直虎は出家して次郎法師に

許嫁がいなくなった直虎は出家します。出家先は龍潭寺で、和尚・南渓端聞はおじいちゃん(直宗)の兄弟にあたる人物です。南渓はこのとき「次郎法師」という出家名を与えました。
1555年(弘治元年)に直親が戻ってきましたが、信濃にいる間に別の女性(奥山親朝の娘)と結婚していました。直親は井伊氏の後継者となるため直盛の養子となり、直虎はけっきょく直親と兄妹の関係になります。

父・直盛の死

1560年(永禄3年)といえば歴史に詳しい方ならピンとくるかと思いますが、「桶狭間の戦い」が起きた年です。この合戦では織田信長が今川義元に勝利しましたが、直盛は義元とともに討ち死にしたのです。多くの家臣もこのとき戦死して、井伊家はピンチにおちいります。

虎松の誕生と直親の死

その翌年に虎松(のちの井伊直政)が誕生しました。
しかし井伊氏の悲劇はつづきます。1562年(永禄5年)に直親は義元の跡を継いだ今川氏真に呼び出されて殺害されます。これは直親が今川氏と縁を切って松平元康(のちの徳川家康)と手を結ぼうとしたからですが、それを政直の息子である小野道好(みちよし)が氏真に密告したためです。道好はドラマでは「政次」の名前で登場するようです。
小野親子は主君に背いた奸臣として語られていますが、これはいわゆる勝者によってつくられた歴史なので事実かどうかはわからないですね。ちなみに道好は1569年(永禄12年)に処刑されました。

遠江周辺の勢力図

この当時の状況を理解するには、「桶狭間の戦い」以降の遠江の勢力関係について知っておいたほうがいいでしょう。
まず当主・義元が戦死して支配力が弱まったものの、依然として今川氏がこの国を治めていました。しかし今川氏から独立した松平元康が織田信長と同盟(清洲同盟)を結んで三河を統一すると、遠江へ侵攻を開始しました。また甲斐・信濃を治める武田信玄も今川領を攻め取ろうとして、遠江(とくに西遠)は大混乱におちいりました。氏真はこの状況を「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼んで、離反しようとする者を厳しく処罰しました。

井伊氏の所領である井伊谷は三河に近いので、勢いのある松平家につくというのは妥当な判断だと思います(もっともその場合は対今川の最前線になるのですが)。

女城主・直虎の誕生と井伊谷徳政令騒動

当主・直親の死により、その子の虎松が跡継ぎとなりますが、まだ幼かったため、直虎は還俗して、その後見人として実質上の当主となりました。「おんな城主」の誕生です。このときにようやく「直虎」を名乗っています。ちなみに直虎と直政は「はとこ(またいとこ)」の関係にあたります。
当主となった直虎は、氏真が井伊谷一帯に出した徳政令をはねつけています。徳政というのは学校で習ったと思いますけど、ようは借金をチャラにすることですね。抵抗の理由は氏真の狙いが井伊氏の弱体化にあったことに気づいたからとも、幼年の虎松が成長するための時間稼ぎだったともいわれています。

直虎、小野氏に井伊谷城を追われる

1568年(永禄11年)、直虎は地頭職を解かれ、小野道好に居城である井伊谷城を奪われます。ここまでが「第一次おんな城主」ですね。
このとき直虎はふたたび龍潭寺に身を寄せましたが、虎松は道好に命を狙われたため三河の鳳来寺に出家させました。

徳川家康の遠江侵攻

三河を統一した徳川家康が遠江に侵攻したのは浜名湖の北側、つまり井伊谷からでした。これは抵抗勢力が少ないルートを選んだためです。
家康は小野氏の専横により、井伊家の家中が今川派と反今川派に割れていることを利用し、反今川派に加勢することにより、井伊谷三人衆(菅沼忠久近藤康用鈴木重時)を味方に引き込みました。そしてその先導によって井伊谷城を接収し、引馬城(浜松城)に入ります。さらに浜名湖周辺の堀川城堀江城などを攻め落として遠江を支配下に置きました。
直虎はこのとき井伊谷城に戻ったと思われます。

武田信玄の遠江侵攻と「三方ヶ原の戦い」

三河・遠江、2カ国の大名になった家康は居城を岡崎城から浜松城に移します。
しかし1572年(元亀3年)に武田信玄が、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で西上作戦を開始すると、武田四天王のひとり、山県昌景率いる別働隊が信濃から侵攻し、井伊谷城は奪われました。ここまでが「第二次おんな城主」です。直虎は浜松城に逃れたそうです。
武田軍は連勝、徳川軍は連敗を重ね、「三方ヶ原の戦い」では家康が脱糞するほどの惨敗をきっしましたが、信玄が病死したため撤退することとなり、直虎は三度、井伊谷城を奪還しました。

虎松の家康への出仕

1575年(天正3年)、直虎は15歳になった虎松を、鷹狩りの場で家康に引き合わせます。
家康は直虎を小姓として取り立て、自分の幼名「竹千代」にならって「万千代」と名乗らせました。また還俗するさいにいったん母の再婚先の松下氏の養子になっていましたが、井伊氏に復帰することを許されました。ちなみに虎松は美男子として知られており、家康が取り立てたのも自らの寵童にするためだったともいわれています。
万千代は1582年(天正10年)、22歳で元服して「直政」と名乗りました。

直虎の死

直虎は1582年(天正10年)8月26日に龍潭寺境内で死去し、家督は直政が継ぎました。その後の井伊家の物語は直政が主人公となります。
直虎の墓は井伊家の菩提寺である龍潭寺にあり、直親と隣同士です。

はたしてドラマではどこまでが描かれるんでしょうね。
直虎の死で終わるのか、その後の直政のドラマも多少は描かれるのか。一年間、楽しみに見たいと思います。

まちがいがないようには注意して書きましたが、初心者にもわかりやすく説明するために正確さが犠牲になっている部分もあるかと思います。明らかなまちがいがあればご指摘いただければ幸いです。

井伊氏の家系図

井伊氏を中心とした家系図です。家康や信長にもつながっているのがおもしろいですね。

直虎についての素朴な疑問

そのほか気になるポイントを一問一答形式でまとめました。

井伊直虎はほんとに女性なの?

最近ニュースにも出てましたね。
正確には「井伊直虎」という人物が「次郎法師」として出家した井伊直盛の娘とは別人ではないかという話なのですが、ほんとうかどうかはわかりません。
女城主というのはそもそも名誉なことではないので(むしろ隠したがるような話)、わざわざそれを書き記すということはほんとうだったのだろうという人もいますし。
大河ドラマの放送をきっかけに新資料が出てくるというのはよくある話なので、今後の調査結果を待つといったところでしょうか。

女城主はほかにもいたの?

この時代、女性が城主になることや、一族の長である当主になることは珍しいことではあったものの、まったくないわけではありませんでした。

たとえば織田信長の叔母にあたる「おつやの方」が有名ですね。彼女は遠山景任に嫁ぎましたが、子どもがいないまま病死してしまいます。跡継ぎとして信長の息子を養嗣子にしましたが、幼年だったため彼女が当主の座を引き継ぎ、岩村城の女城主となりました。現在も岩村城のある岐阜県恵那市岩村町では、地元の醸造会社岩村醸造が「女城主」と名付けた日本酒を販売したりして、「女城主」をキーワードに地域おこしを試みています。

立花誾千代(ぎんちよ)も有名ですね。戸次鑑連立花道雪)のひとり娘で、誾千代が7歳のときに立花城を譲られ、女城主となりました。その後、高橋紹運の長男である統虎(のちの立花宗茂)が誾千代と結婚して婿養子となり、あらためて道雪から家督を譲られたので、誾千代の女城主時代は数年間でした。ちなみにこの夫婦はあまり仲が良くなかったといわれてますが、双方の父親がいずれも超人のような武将なので、ぜひドラマ化してほしいですね。

また今川義元の母である「寿桂尼」は「女城主」どころではなく「女大名(女戦国大名)」とまで呼ばれました。今川氏親の正室だった彼女は、氏親が晩年病床にあったこともあり存命中から補佐をしていました。氏親の死後に氏輝が家督を継いでからも、陣頭に立って今川氏の政務を取り仕切っていました。

余談ですが、こうした事例が上杉謙信が女性だったという説のひとつの根拠でもあったりしますが、それはまた別の機会に。

ほかにも疑問があればメールまたはコメント欄で聞いてくださいね。できるかぎりちゃんと調べてお答えしますので。

参考資料

今回、以下の書籍や資料を参考にさせていただきました。

  • 「湖の雄 井伊氏〜浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像〜」(静岡県文化財団)
  • 「井伊直虎物語」(浜松歴女探検隊)
  • 「おんな城主 直虎 前編」(NHK出版)
  • 『井伊家のひみつ』(ぴあMOOK)
  • 『井伊直虎完全ガイド』(晋遊舎)

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井伊直虎ゆかりの地である井伊谷城や龍潭寺を訪問してみませんか?

   
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