歴史というものは時の為政者によっていかようにでも書き換えられるもので、「本能寺の変」で明智光秀が悪人として書かれたのは豊臣秀吉によるものであるとか、「関ケ原の戦い」で石田三成が大罪人であるかのように書かれたのは徳川家康によるものであるとか、枚挙にいとまがないほどこの手の(為政者にとって都合の良い)歴史の改ざんはよく見られます。
大坂城においても「大坂の陣」ののちに再築された際には、豊臣時代の縄張りを地中深く埋めて、その上に天守を築いたように(だから地中に眠っていた豊臣大坂城の石垣を掘り起こそうとしているわけですね)、豊臣時代を全否定するために埋めちゃったんだと思ってたのですが、そうではないとこの本に書かれていました。
(略)豊臣時代の遺構は一石たりとも地上にないが、豊臣氏の名残を消し去るために埋め立てたのではない。本来、落とした城は屈服の象徴としてむしろ揚げるもの。豊臣大坂城の継承は、政治権力が徳川氏へ移行した証になるのだ。
豊臣大坂城の否定でないことは、徳川大坂城の城門や櫓の名称が豊臣時代と一致することから証明される。すべての建造物が大坂の陣で焼失してしまったが、桜門、大手門、京橋門、玉造門、山里丸、極楽橋、千貫櫓などの名称をすべて継承したのだ。豊臣色の払拭が目的なら改称が当然。埋め立てたのは、徳川流築城の生みの親である藤堂高虎の「堀の幅と石垣の高さを2倍にせよ」という進言によるもので、城壁を高く構築するためやむを得ず行われた。
縄張も、豊臣時代とほぼ変わらない。江戸時代に築かれながら主流の四角形ではなく、旧式の不等辺多角形だ。山里曲輪を見ればその形状がわかるだろう。ただし、本丸は豊臣時代とは少し異なり、南北に分断していた堀を埋め立てて一体化し、広大な御殿を建造している。 『ビジュアル 日本史1000城』P.108
読みながら、なるほどなあとひとりで感心してたので、ぜひみんなにも知ってほしいとブログに書いているのですが、たしかに否定するならわざわざ同じ名前をつけたりしないですよね。
有名な例は稲葉山城があった場所に再築した城を岐阜城と改称した織田信長ですけど、家康も曳馬城を「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、浜松城に改称していますし、この手の城や地名を改めたという話はたくさんあります。
にもかかわらず名前を踏襲したというのはやはり「変えなかったこと」に意味があるんでしょうね。
toproadさんが城がたり「よくわかる小牧山城」を企画してくれました。愛知県小牧市と調整してくださり、学芸員の方にZoomで話していただけることになりました。小牧山城の歴史、発掘調査の成果など、いろんな話が聞けると思いますのでぜひご参加ください。
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