本日から榎本先生の連載「歴代征夷大将軍総覧」をブログで公開していきます。
この連載も過去に出版された『歴代征夷大将軍総覧』をもとに再編集したものです。
いつも感心するのですが、これもおもしろい切り口の本です。
征夷大将軍とはどういう役職だったのかというのは意外とむずかしい質問です。それはその性格や権限が時代とともに変わっていったからなのですが、この役職ができた経緯を知り、源頼朝がこの役職に就任して鎌倉幕府を開いたときの状況を理解することで臨時の役職にすぎなかった征夷大将軍(当初は名称もちがっていた)が「武家の棟梁」の代名詞になっていったことがわかります。
ではなぜ「幕府」という臨時政府を開くことができる特権が生まれたのかというと、征夷大将軍は多賀城など都から遠方に拠点を置くことになるため、いちいち朝廷の決済を仰げないというのが背景にあります。
「現場に一任する」というのを制度化したものが「幕府」というわけですね。
これは京から離れた鎌倉に本拠を構えたい(=朝廷から独立した政権を築きたい)源頼朝にとっては都合のいい制度なので、彼はうまく利用して鎌倉幕府を創立しました。
なお源頼朝の征夷大将軍就任は1192年(建久3年)ですが、いわゆる「鎌倉幕府の成立年」については近年、東国支配権の承認を得た1183年(寿永2年)や守護・地頭設置権を認められた1185年(文治元年)などが有力になっているように、必ずしも征夷大将軍就任と幕府設立がイコールではないのもややこしいですね。
(そもそも源頼朝は「征夷大将軍」ではなくただの「大将軍」を希望したところ、朝廷側が木曽義仲の「征東大将軍」は縁起が悪いとして、坂上田村麻呂にならって「征夷大将軍」を選んだそうです)
というように征夷大将軍というのは日本史を学ぶ上でけっこう大きなウエイトを占めていることがわかります。
とくに鎌倉時代から江戸時代までの間は一時的な将軍不在や、実質的な権力者が必ずしも征夷大将軍ではない期間もありましたが、なぜそのような状況が生まれたのかを知ることで、歴史の見方にひとつの軸ができます。
ぼくもこれから読んでいくのですが、とても楽しみな連載です。
最後に榎本先生からコメントをいただけたのでご紹介します!
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つづきを読む昨年に続いて第6回目となる団員総会を開催したのでレポートを書きました。今年は去年と同じ会場でしたが、内容はかなりアップデートしています。とくに「お城ビンゴ」は盛り上がったので、今後の定番ゲームにしていきたいですね。来年はさらに多くの団員と集まりたいです。
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つづきを読む土岐明智氏の居城であり、戦国時代にはその一族である妻木氏の居城になった妻木城にも攻城団のチラシを置いていただきました。もとてらす東美濃で入手できます。
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本連載では古代から江戸時代まで、総計で48人を数える征夷大将軍それぞれの経歴や業績、ひととなり、そして彼らの治世下で起きた大きな事件について紹介していきます。
さて、現代日本で「将軍」といえば、それはまっさきに「征夷大将軍」の略語を意味します。この征夷大将軍は武家の棟梁であり、幕府の長であり、源氏の長者に他なりません。
実際のところ、将軍が実質的な権力を有していた時期は短く、側近や有力武家によって象徴・傀儡とされるのは珍しくありませんでじた。それでも武士政権の頂点であり、日本の統治者であり続けた存在。日本の外から見れば「日本国王」や「皇帝」。それが将軍なのです。
しかし「将軍」や「征夷大将軍」という言葉が本来持っていた意味はここまで紹介したものとは実は違う、というのはご存じでしょうか。
そもそも、将軍という言葉は古代中国において「軍隊を率いる君主」を示し、これが転じて「軍団の長」といった程度の意味になったのです。
古代日本には征夷大将軍以外にも「将軍」と名のつく役職があったし、南北朝動乱において南朝方は征夷大将軍を立てて東国で戦わせる一方、征西大将軍が九州で北朝方勢力と対峙していました。江戸幕府が消滅した近代以降の日本にも軍の役職・地位としての「将軍」があったのです。
日本における最も古い「将軍」は崇神天皇が設置した「四道将軍」(史料によって「三道将軍」とも)だとされます。ちなみに、ここでいう「道」は道路や街道ではなく地域を示す言葉なので、崇神天皇は4つの地域に将軍を配置した、ということです。
蛇足ですが、この道という言葉は現代でも北海道にその名を残しています。また、戦国時代にその名をはせた今川義元や徳川家康は「東海一の弓取り」と称されたが、ここでいう東海は「東海道」の意味で、東海道という道で一番ということではなく、東海道という地域で一番の武将(弓取りは武士の別名)を意味します。
このように、「軍団の長」であった「将軍」という役職のうち、なぜ征夷大将軍だけが特別な扱いを受けるようになり、ついには天皇と朝廷に取って代わる「政権の長」にまでなってしまったのでしょうか。
そして、それぞれの将軍たちはどのような生涯を送ったのでしょう。
古代の征夷大将軍は東北の部族「蝦夷」と対峙し、服属させるための存在でした。そのために本来天皇しか持ってはいけない軍権を付与されてはいましたが、それ以上の存在ではありませんでした。
鎌倉時代の征夷大将軍は、その先駆けとなる存在である源義仲を除き、鎌倉幕府の長のことを示しています。しかし、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝こそ強大な力を持ったリーダーではありましたが、以後の将軍たちは有力な武士たち――特に将軍を補佐する執権の職を独占した北条氏――による傀儡に過ぎませんでした。
頼朝の血筋も混乱の中に三代で絶えてしまい、以後は藤原摂家や天皇家から将軍を迎える体制が続きました。
その鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇および彼の築いた南朝も征夷大将軍を置きました。これは後醍醐天皇の「建武の新政」が幕府的なシステムを作ろうとした証拠ともされるが、長続きはしませんでした。
鎌倉幕府を倒すのに大きな役割を果たし、また後醍醐天皇にも反旗を翻して北朝を立てた足利尊氏を祖とするのが、室町幕府の征夷大将軍たちです。
鎌倉幕府のように血筋が絶えることこそなかったものの、彼らの力も必ずしも強いものではなく、「守護大名」と呼ばれる有力武家たちの思惑に振り回されることも多かったのです。
やがて室町幕府と征夷大将軍の権威が薄れる中で時代は戦国時代に突入し、室町幕府は消滅します。
乱れた天下を最後に治めたのは徳川家康であり、征夷大将軍となった彼の築いた江戸幕府は二百数十年にわたって日本を統治しました。江戸幕府の将軍たちは強権を振るったものから完全な傀儡までさまざまです。
中には八代将軍・徳川吉宗のような名君も輩出しましたが、社会体制の変化と海外列強の圧力には抗いきれず、ついに崩壊。時代は明治維新へと移り変わっていくのです......。
なお、本連載は拙著『歴代征夷大将軍総覧』(幻冬舎)を修正・再構成したものです。