本日から榎本先生の連載「戦国時代の境界大名」をブログで公開していきます。
この連載も過去に出版された『戦国「境界大名」16家』をもとに再編集したものです。
なんといっても「境界大名」という言葉がいいですね。
思えば近年放送された大河ドラマ「真田丸」の真田家、「おんな城主 直虎」の井伊家はまさに「境界大名」で、この連載でもしっかり紹介されています。それぞれのドラマをご覧になられた方ならおわかりのとおり、両家とも順風満帆な出世ではありませんでした。
真田家は武田家の滅亡とともに織田家に従うものの、「本能寺の変」後に勃発した「天正壬午の乱」では次々と従属先を変えて生き残りをはかりましたし、「関ヶ原の戦い」では親子で東西にわかれることとなりました。その結果、真田家は松代藩10万石として幕末まで存続します。
井伊家の歴史も波乱に満ちています。当主である井伊直親が忙殺されると、謎の城主(これが大河ドラマの主人公・直虎)が暫定的な当主となり、やがて直親の嫡男である直政が徳川家康の側近となり、やがて「徳川四天王」と呼ばれるまでの大出世を遂げたわけですが、井伊家は江戸時代も譜代大名の中心的存在となります。
ほかにも相馬家、諏訪家、奥平家、小笠原家、松浦家などなど、国衆から元守護までさまざまな大名家が紹介されています。
織田家と武田家にはさまれた遠山家、大友家と島津家にはさまれた伊東家など、典型的な境界大名がどのように立ち回ったのかという切り口で歴史を見てみるのもおもしろいと思います。
最後に榎本先生からコメントをいただけたのでご紹介します!
第1回「井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える」を読む
岩村城の城主・遠山景朝の子、遠山景重の居城である明知城にも攻城団のチラシを置いていただきました。大正村観光案内所と恵那市観光物産館「えなてらす」で入手可能です。
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つづきを読む毎月恒例の月次レポートを公開します。師走の由来が「お坊さんが走り回る」というのはどうやら間違っているようですが、現代人にとって忙しい月であることはまちがいないので、みなさんも健康に気をつけて、良い一年の締めくくりにしてください!
つづきを読む日本三大山城のひとつに数えられ、おつやの方が女城主をつとめたことでも知られる岩村城にも攻城団のチラシを置いていただきました。岩村歴史資料館と岩村まち並みふれあいの舘、さらに恵那市観光物産館「えなてらす」で入手可能です。
つづきを読むtoproadさんが城がたり「よくわかる小牧山城」を企画してくれました。愛知県小牧市と調整してくださり、学芸員の方にZoomで話していただけることになりました。小牧山城の歴史、発掘調査の成果など、いろんな話が聞けると思いますのでぜひご参加ください。
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本連載のテーマは戦国時代の日本で活躍した「境界大名」です。彼らがどのような状況にあったか、どのような結末をたどったかを、16の大名家の実例を紹介することで見ていただきます。
といっても、この言葉は著者の造語なので、読者の皆さんには何が何だかわからないことでしょう。そこで、まずは「境界大名」とは何か、を見ていくことにします。
境界とは、土地や国の境のことです。
戦国乱世、日本各地に有力大名が立ちました。その出自はさまざまです。伊達・今川・武田・島津のように元々名門の守護大名家であり、一族の内紛を治めて戦国大名化したもの。上杉や織田のように守護代(守護の補佐)やその一族から下剋上で台頭したもの。そして、毛利や北条のように国人(あるいは土豪、豪族とも。小~中規模勢力武士)や大名家の家臣、またそれに近い立場からやはり下剋上で成り上がったものです。
このような有力な大名が各地域に複数立つと、それぞれの勢力範囲が近接し、あるいは重なる地域が生まれます。すなわち、「境界」ですね。そこには独自の勢力を持つ国人が割拠し、時に隣接する大名Aに臣従したかと思えば、別の大名Bを盟主と仰ぐ。このように情勢の変化に合わせて立場を変え、生き残りを模索するわけです。
境界大名から成り上がった代表例としては、中国の覇者・毛利氏の名前がまず挙がります。もともと、毛利氏は安芸の小国人にすぎず、中国地方の二大勢力である大内・尼子の両氏に圧迫されていました。そのなかで時に大内につき、時に尼子につきながら自家の生き残りを図るのが毛利氏のスタンスでした。尼子の大軍に本拠地を包囲され、絶体絶命の危機に陥りながら、大内の援軍に救われたこともあります。
多くの境界大名はこのような立ち振る舞いを続けながら自家の勢力を保存することに汲々とします。やがてその立ち回りに限界がくれば攻め滅ぼされるか、あるいはどこか一つの大名の支配下に組み込まれていくのが普通です。
しかし、毛利氏は違いました。天下に名高き謀将毛利元就は、盟主たる大内氏の内紛に乗じてこれを滅ぼし、返す刀で尼子氏も滅ぼして、ついに中国を統一してしまったのです。ここまでの鮮やかな成り上がりは、下剋上の戦国時代といっても他に例は多くありません。
ともあれ、多くの境界大名は戦乱の世の中で攻め滅ぼされ、あるいは大名家を構成する家臣団の一つとなり、その独立性を失っていくことになります。また、かろうじて独立を保っていた境界大名も、時代の流れには勝てません。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいわゆる三英傑が現れることにより、境界大名たちに独立を許した戦国時代という一時代そのものが終わっていくからです。毛利氏だって秀吉に従い、家康に圧倒されるのですから。
そもそもなぜ境界が生まれるかといえば、各地に群雄が割拠し、その勢力圏が隣接するからです。天下に覇を唱えるような強者が現れれば、境界はなくなってしまいます。秀吉の天下統一までを生き延びた境界大名たちの多くは豊臣政権の前に膝を屈し、臣従を誓ったのです。そして関ヶ原の戦いを経て世が太平の江戸時代へ入っていくと、彼らは徳川家に仕える近世大名となります。もちろん、すでに境界大名的性質は完全に失っているわけです。
ここまでに紹介したのはあくまで概説にすぎない。実際の境界大名たちはそれぞれに性質が違う事情を背負っており、結末も多様です。
そのなかでも、本連載で紹介しているのは江戸時代まで生き延びて近世大名となりおおせたものたちばかりです。彼らの歴史をたどることで、激動の時代に生き延びるということがどういうものなのかに、触れていただければ幸いです。
なお、本連載は拙著『戦国「境界大名」16家』を修正・再構成したものです。