花隈城というのは、荒木村重が築いた城で(和田惟政の説もあります)、神戸中華街の近くにあります。
クルマでいくと海側から、JRの高架下をくぐってすぐのところにあります。
電車でも駅からすぐのところにありますし、なにより城跡が駐車場になっている攻めやすい城です。
(まあそれが城址の景観としていいかは別ですけどね)
花隈城は、永禄10年(1567)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。のち天正6年(1578)村重が信長にそむいたとき、花隈城は池田信輝らに攻められて、天正8年(1580)8月2日ついに落城した。 城の地点は海に面して突き出たハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地である。城の規模は古図によると、本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり、近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるが、建物の構造などは詳しくわからない。城の西には花隈町があった。 現在の地形では大体東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、南は国鉄高架線、北は市電山手線の区域で、東西約350メートル、南北約200メートルであったと思われる。 昭和44年3月ここにもあるとおり、花隈城が歴史的に意味を持つのは、織田信長に反旗を翻した荒木村重にとっての最後の城となったことにあります。 (昭和44年の石碑なので、説明が「国鉄」になってますね) 「有岡城の戦い」で有岡城を失い、その後さらに尼崎城も失った荒木村重の最後は、この花隈城を舞台に1580年(天正8年)3月2日からはじまる「花隈城の戦い」でした。 ぼくは荒木村重は有岡城から逃亡したものだと思っていたのですが、この花隈城から毛利氏の元へ亡命したんですね。 残念ながら当時の遺構はなんにも残ってません。 天守台っぽいものもありますが、これも模擬で当時の天守はこことはちがう場所にあったとされています。
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