福岡城攻城レポート、昨日のつづきです。
表御門の石段をのぼった先にあるのが「祈念櫓」です。
この祈念櫓は鬼門封じを祈念して建立されたものです。
1860年につくられているということから江戸末期、いわゆる幕末に建てられたものですね。
「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。御代には城も入り申さず候。城をとられ申し候はば、御かげを以て取り返し申す可くと存じ、右の如く申し付け候よし、申し上げらると承り候」と福岡城の天守や家(屋敷)までも崩したことが書かれています。 こうした天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、じつは天守があったのではないかとする説も生まれています。 また、なぜ天守の解体をしたのかというと、ちょうどこの当時は大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されていたこともあり、福岡城の天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたという説も上がっています。 ちなみに仮に天守があったとすると、天守台の礎石(そせき)や石垣の規模から、5層の天守があったと推定されます。 文書の存在や、時代背景(徳川幕府による天下普請)から考えると、天守の存在をちょっと望んでたりするぼくなんかはなるほどなあと思っちゃうんですけどね。 ただ、やっぱり「なかった」とする説のほうが現在も有力のようです。 九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史)は「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」と海際の高台にある福岡城の気象や建築学からの考証に基づいた説を主張されていますし、細川忠興の手紙にある「天主(天守)」という言葉はおそらく「天守相当の櫓」のことを指していたのではないかと推測されています。 (江戸末期の福岡城の本丸を描いた絵図には、「大天守台」、「中天守」、「小天守」と記されているので、中天守と小天守は存在したが、大天守は土台だけだったのでは、と考えられます) たしかに江戸時代は幕府への配慮から天守が築かれずに、2層や3層の櫓をその代わりにした城がたくさんありますしね。 そもそも江戸城の富士見櫓も「明暦の大火」で消失した天守の代わりに使用されていますし、現存天守のひとつである弘前城の天守も「事実上の天守」であるだけで、じっさいは櫓(御三階櫓)ですからね。 冷静になって評価するなら、現時点では「天守はなかった説」のほうに軍配が上がりそうですね。 ただ、このあたりはいつ新事実が発見されるかわかりませんし、もう少しミステリーのまま楽しんでみるのもいいかもしれません。 2日目はここまで。明日は最終回です。
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