さて、二日目は朝から佐久市の龍岡城を攻めました。
龍岡城って「もうひとつの五稜郭」として有名なお城です。
これはWikipediaにある画像ですけど、五稜郭の形がそのまんま残っていることがよくわかりますね。
龍岡城五稜郭(Wikipedia)
もともと寄る予定はなかったんですけど、宿で攻城団の地図から検索を使ってみると「あれ、けっこう近い」と気づいたので、方向的にはいったん戻る感じになるんですけど、ついでに攻め落とすことにしました。
(
地図から検索、旅先で使うとけっこう便利ですよ)
小諸からだとJR小海線で臼田駅まで戻ります。
小海線には龍岡城駅というそのまんまの名前の駅もありますが、龍岡城跡へは臼田駅のほうが近いです。
そうそう、ちょうど小諸駅に観光列車「ROKUMON」が停まってました。
これいつか乗ってみたいんですよね。
小海線は「こうみ」って読むんですね。
かわいいキャラクターもいます。
臼田駅です。小海線には無人駅など小さな駅もあるんですけど、この駅は大きいほうでした。
駅から龍岡城跡までは歩いて約20分です。
線路をわたって、道なりに進めば佐久市川村吾蔵記念館が見えてきますので、その裏手にあるのが龍岡城です。
記念館があるところは「五稜郭公園」というらしいです。
駐車場もありますが、龍岡城を見学するならもう少し先にある「
佐久市歴史の里五稜郭であいの館」のほうがいいですね。
もうこのあたりから五稜郭っぽい石垣が見えています。
ここは埋められたんじゃなく、そもそも未完成だったようです。
龍岡城をつくった
松平乗謨(まつだいらのりかた)が幕府の要職についたため公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなってしまったことから、石垣工事が簡略化されたようです。
ここは水堀が残っていますが、水が流れているわけではないのでボウフラなどが問題になってるそうです。
全国のお堀があるお城共通の問題ですね。
ちなみにこのあたりの堀は廃藩置県後に埋められたそうですが、昭和の初期に住民によって復元されたといわれています。グッジョブですね。
城址が小学校になっているところはけっこうありますが、龍岡城址にある佐久市立田口小学校は自由に校庭に入って見学できるのでありがたいです。
(前に
茨木城址にいったときは石碑の写真を撮るために先生と交渉しましたから)
これが
御台所櫓です。建物遺構ですね。
事前に予約していれば内部を見学することもできるそうです。
ぼくは当日朝に電話したんですがダメでした。
「佐久市歴史の里五稜郭であいの館」です。
内部には復元模型などが展示されています。御台所櫓の裏手にプールがあったんですね。
館の裏手にあるのが
大手門跡です。ここからも校内に入ることができます。
この周辺の堀がいいんですよね。角度のついた石垣が見事です。
それと城址から少し離れた場所に
枡形虎口の石垣が残っています。
ここにも案内板と石碑がありますので、ぜひ立ち寄りたいですね。
それでは当初の予定に戻って、
善光寺に向かいます。
が、ここでまたもミスをしてしまいます。
小海線はそれほど本数が多くない電車なので、一本乗り過ごすと1時間くらい待たなきゃいけません。
けっきょくぼくはタクシーを呼んで佐久平駅まで戻ったんですけど、もし電車で攻城される場合は電車の時刻表はしっかりチェックしておきましょう。
余分なお金を使っちゃいましたが、佐久平駅から長野駅までは北陸新幹線のカッコいい車両に乗れました。
はじめて乗ります。
すぐ次が上田駅なんですけど、上田城は新幹線の線路のすぐ近くにあるので、窓から見えますよ。
そして、長野駅です。
もう駅の中から「善光寺御開帳」で盛り上がってました。
あ、ここからお城と関係なさそうなレポートになりますが、最後に戦国時代に関連する写真も出てきますよ。
長野駅ははじめてでしたが、素敵な駅舎ですね。
長野駅から善光寺までは地下鉄で向かいました。
歩いても30分くらいでいけますし、バスでもいけますけど、電車が好きなので。
(旅行していると、自分の中のテツ成分を自覚できますね)
これ、小田急のロマンスカーですね。
調べたらやっぱりそうでした。
小田急電鉄で使用されていたロマンスカー10000形「HiSE」を、長野電鉄が無償で譲り受けたそうですね。
このロマンスカー乗ったことあるわ。
(ちなみにこれには乗れませんでした)
とにかくすごい人でした。
中央に写っているのが回向柱ですね。これをさわりたくてすごい行列ができてました。
じつはここから本堂に入って、前立本尊を拝むわけですが、この日は平日だったんですけど40分待ちでした。
GWには4時間待ちだったそうですよ。ディズニーランドみたいですね。
され、ここからが戦国ネタです。
善光寺は江戸時代には「西の伊勢神宮、東の善光寺」といわれたくらい、当時から東日本における中心的な寺院のひとつだったんですけど、それより前の戦国時代には
武田信玄と
上杉謙信の争いの舞台となり、善光寺仏は信玄の手に渡り、その後も
織田信長によって武田氏が滅ぼされたあとは
織田信忠、
信雄らに渡り、さらには
徳川家康が譲り受けることになります。
そして、1597年(慶長2年)には
豊臣秀吉の命令で甲斐善光寺から京都の方広寺へと移されますが、翌年に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰されたといわれています。
江戸時代に入り、大奥とのかかわりが深かったらしく、本堂裏には三代将軍・家光の夫人である
本理院、乳母である
春日局らの供養塔がありました。
また善光寺の外護職を松代藩真田家がつとめていたため、真田家の供養塔もあります。
今年は御開帳ということで、善光寺は観光客であふれていましたが、徳川家や真田家の供養塔のところには人がいませんでした。
本堂のほんとすぐ裏なんですけどね。
たぶんご存じない方がほとんどだと思うんですけど、こういう情報を事前に知っとけば善光寺の観光もより楽しめると思うんですよね。
ふつうの観光地といえどもそこには歴史があり、とくに寺社仏閣の場合は当然のように戦国時代や江戸時代にもそこにあったわけですから(焼けちゃったりしてますけどね)、戦国武将とのかかわりもあったりするわけです。
熱田神宮には信長塀があり、三十三間堂には太閤塀がありますが、戦国武将による寄進があった寺社仏閣は珍しくありませんので、ちょっと調べてみるといいと思います。
(できるだけ攻城団でもフォローしていきたいと思います)
学生の頃は年号を丸暗記するしかなかったんですが、せっかくテストを意識しなくていい大人になったんですから、脱線して寄り道して、歴史の流れをゆっくり味わっていけるといいですよね。
おそばを食べて、北陸新幹線で帰りました。
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