猿掛城は庄氏・三村氏・毛利氏による備中の覇権争いの舞台となった城です。1574年(天正2年)には毛利氏と友好関係にあった三村元親が織田信長と結んだことに起因する「備中兵乱」の際には、毛利氏の三村氏攻略の前線基地となりました。三村氏の滅亡後、毛利元就の四男・元清が猿掛城主となり、その際に猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名乗るようになりました。また、1582年(天正10年)の羽柴秀吉による高松城水攻めの際には毛利輝元の本陣として使われています。現在も城趾には土塁や石積みなどの遺構が残っています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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